デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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入り組んだ根源

私はどう考えても学者肌ではありません。それがたとえ木版画のように自分が非常に感心を寄せているテーマであっても、たいていの歴史の本にぎっしり書かれているような「名前や年号」の羅列を覚えるなど、考えるだけですぐにぼんやりして、焦点の定まらない目付きになってしまいます。このニュースレターの読者なら分かりきっていることのはず、12年分以上にもなるバックナンバーを思い返して頂けば、「出来事Aの次にBが起きて」などと単純に歴史を羅列した芸術論は見当たらないはずですから!

私は実際かなり読書をするほうですし、自分の守備範囲にある総合的な歴史を知る事は大切だと思っているので、常に注意を怠らないように心掛けています。長年そうしていると、集めた情報間の関連性をつかむことができるようになりましたので、日本の木版画の源について私が考えるところを、ちょっとご説明したいと思います。日本の読者には、ちょっと驚かれる箇所があるかも知れませんが、伝統木版画は「思っている程日本独自の物ではない」と同時に「思っている以上に日本独自の物である」のです...

日本の伝統の歴史的根源に関するどのような著述を読んでも、たいていこのように始まっています。「この話は、ほとんどの場合がそうであるように、中国に源を発し...」それから作者は、話題にしている伝統がどのようにしてアジア本土に最初に起り、現在の朝鮮半島を経て島国日本に伝わってきたかを説明していきます。そのようにアジアの経路を通ってきた日本の伝統を列挙すると、漢字・仏教・陶器・などなど、とても長くなりますが、版画の根源的経路もその中に入っていたらしいのです。なぜなら、博物館に行って調べてみると、最も初期の版画は日本製ではなく中国製だからです。でも、話はそう単純にはいきません。

一番初期の版画は、それがどこで作られた物であろうと、板の上に鋭い小刀で彫られたものでした。絵の形を彫り終えると、その上に何らかのインクを塗って紙を載せ、その背を何かで擦って絵を写したのです(プレス機が発明されるずうっと以前の段階です)。この単純な「技術」は、—起源がどの地であれ—簡単に伝達されて、世界中で使われるようになりました。この初期の版画の、とても重要でしかも興味深い点は、陶器や金属細工のような洗練された技法とは違い、版画制作に使われる道具や技術は「完成品をみるだけでおおよその見当がついた」ということです。年季の入った職人が技術を伝える為に国から国へと旅をして回る必要はなく、製品としての版画が移動すれば十分だったのです。土地の職人がそれを見れば、その他の工程は自分達で解決できたからです。言い換えれば、「形象を別の紙に写せる」という「発想」が重要であって、あとはリバースエンジニアリングの手法で、別の場所でも似たような製品を作り出す技法を考案していけたのです。この中で伝説的とも言える例が、江戸時代に発展した日本の多色摺り木版画です。

単色の版画は、日本でも中国でも、何世紀もの間知られていました。初期の作品例を捜して、一番引き合いに出されるのが素朴な仏画で、どちらの国が先に作り出したかは学術的に議論されるところです。でも、一番最初に多色刷りを始めたのは中国だったようで、その一部はロンドンにある大英博物館に貴重な品として大切に保管されています。多色刷りをするという発想はそれから海を越えて日本に渡ったらしく、その数年後を辿ると、日本での始まりを認めることができます。では、中国の職人が海を渡って、日本まで技術を伝えにきたのでしょうか?私はそうは考えません...そういった版画を見た日本人が、似たような作品の作り方を自分達なりに工夫したのです。

では、ふたつの国の伝統的多色刷り版画にある根本的な違いを説明しましょう。

紙:中国の物は、日中両国で習字用に使われている画仙紙で、薄くて脆い紙です。刷る時には、絵具の付いた版木の上に紙を置いて、ちょっと触れる程度で十分なので、勢い良く擦る必要はありません。(そんなことは、できもしませんが)湿った状態で紙を取り扱うことは無理なので、乾いた状態で摺ります。正確に見当を合わせるのは不可能で、輪郭となる墨線の間にきっちりと色を付けることはできません。

和紙の場合は、しっかりとした質感があり、絵具を紙の内部に浸透させていくのであって、表面にくっつけるだけではないのです。摺師は、使う前に紙を湿らせなければなりませんが、湿っていてもしっかりと安定した状態なので、正確に見当を合わせることが可能です。

刷り具:中国の紙は脆いため、軽く重さを加えるだけなので、馬の毛や植物の葉で覆ったりした木片を使います。けれども、日本の紙は丈夫にできているので、はるかに強い圧力を加えられる道具が必要になります。それで、今日私達がバレンと呼んでいる刷り具が開発されたのです。(後から詳しく説明します)

見当:中国の紙は、摺る前に湿らせないので、束になった紙は作業の間空気に曝された状態です。色版は、形通りに切り取られた小さな板切れが、松脂で机の上に貼付けられているだけで、「板」ではありません。ですから、見当は大ざっばになりますが、中国人の作る絵の場合はさしたる障害にはなりません。

ところが日本では、多色刷りが発展した一番の誘因となったのが肉筆の浮世絵を再製することだったのです。くっきりした墨の線とむらのない色付けですから、正確に重ねて摺るための技術が必須となり、見当を使う手法が発達しました。どの版木にも、ふた組の印を付けて、そこに毎回紙をピタリと当てていくのです。和紙に適度の湿り気を与えて安定した状態にするために、束ごと何かで覆っておかなければなりません。和紙がちょっとでも乾いてしまうと正確に見当を揃えることは不可能になります。

項目別に説明してきましたが、こういった事柄は、すべて同時に進行していくのであって、相互に関連しています。たくさんの色を使った肉筆画は、これ以前に存在していましたが、中国からの多色刷りの版画が渡ってきてきっかけを作るまでは、色を付けて摺るなどという発想は皆無でした。でもひと度—摺って色を付けられる—という着想が得られると、地元の職人は(何年もかけて)目的を達成するための道具や技法を開発していったのです。それでは、日本の多色刷りは「国産」の代物なのでしょうか?そうとも言い切れず ... 筋は込み入っていきます!

日本の版画の最も謎めいたところのひとつが、通常バレンと呼んでいる刷り具の起源です。細く切った竹の皮を長く編み繋げ、それをぐるぐる巻きにして、極薄の和紙を何枚も重ねて形作った丸い型に当てはめ、最後に竹の皮で包んだものです。似通った物は世界中のどの文化圏にも見当たらず、日本で開発されたことは明白です。ところが、ここで再び、リバースエンジニアリング—他所で最初にできた概念に基づいて製品を開発した—の気配があるのです。今度は中国ではなく ... ヨーロッパです。

ヨーロッパ人は16世紀に日本に渡ってきましたが、その中にはポルトガルからのイエズス会の牧師達も入っていました。キリスト教の布教に熱心な彼らは、宗教関連の記述や初歩的な言語学習教材を印刷するための用具も九州に持ち込んでいたのです。道具は、当時ヨーロッパで一般的な物だったはずで、ここが面白くなってくるところです。活字を置いて、皮製のタンポを使ってインクを付け、その上に紙を載せて、背を 'druck ballen' (印刷バレン) という丸い道具を手に持って擦りました。(挿し絵を見て下さい。これは1420年に発行された、当時の印刷の道具を示している本から取ったものです。'Ballen' はドイツ語で「親指の付け根のふくらみ」を意味します。これは明らかに、印刷技法が確立する以前に用いられていた手の部分から名付けられたものと思われます。

彼らの活動は1500年代後期からイエズス会の宣教師達が徳川幕府に追放される1600年代初期まで続きましたが、日本国内の記録を辿っても、この時期以前には、バレンという道具は存在していないようです。

印刷をする様子を日本人が観察し、目にした刷り道具を再現しようと独自の開発を試みただろう、中国製の何かで包まれた直方体の(扱い難い)道具などは完全に無視しただろう、などと想像を巡らしても、決して飛躍し過ぎとは思えません。ところで、ヨーロッパの 'ballen' の中には何が入っていたのでしょう?私には皆目分かりませんが、そんなことは当時の人たちにとって障害にもならなかったことでしょう。きっと最初は、色々な材料を試して、撚った竹の皮がとても具合が良かったので皆が使うようになったのだと思います。そしてドイツ語の 'ballen' と日本語のバレンとの類似性については、もう説明の必要はないでしょう...

ちょっと前のことですが、この事について日本の版画職人と話をすると、日本人がヨーロッパからバレンという概念を「拝借した」という見方には反論されてしまいました。彼は、バレンは日本独自の物である、と主張して止まなかったのです。私は見当違いだと思うのですが。他所の文化にある発想を拾い上げたからといって何も後ろめたいことはありません。どちらよりも優れた物を追求して、遠くの国から取って来た案を自家製の台木に継ぎ木するのは、独自の行為です。日本人は外国からの「種」を発芽させて、バレンというとても優れた道具を開発し、多色刷りを世界芸術の偉大な業績ともいえる高みにまで育んできたので、その過程に何の後ろめたい要素はないのです。

ヨーロッパに生まれた者として、私はそう言いたいところなんですよ! 

注:昔のドイツの 'ballen' に関する情報源は、ミヒャエル・シュナイダー氏から得ています。氏は、オーストリアの版画家で、日本には特別の親近感を寄せている方で、1990年代には東京芸術大学で4年間勉強し、日本の版画家達と共に仕事もしています。美術家であり... (私とは違い)学者でもあります!ミヒャエル、ありがとう!

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