デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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ハリファックスから羽村へ

この「ハリファックスから羽村へ」は、このところどうもペースが遅くなってきているようです。この調子だと、この話を終わらせるのに、実際にかかった時間と同じだけの時間がかかりそうです!まあ、今回は、ちょっとは、スピードアップできるのではないかと思っています...

前回の最後で、音楽店の社長のビルが、またもや(4度目です!)「仕事をしないか」と言ってきたことをお話しましたね。彼とのつきあいは長いですが、いったいどんな仕事をもちかけてきているのか想像がつきませんでした。最初の数年間、私は有能な従業員でしたが、私がそんな仕事にはもう興味がないことを彼は知っているはずです。支店長としてはあまりいい仕事ができませんでした。ですから、そういう仕事は問題外です。コンピューターシステムを見直すにはまだ時期が早すぎます。

彼の提案はまったく驚くべきものでした。彼は会社の再編をはかっていて、私に共同経営者のような立場で働いてほしい、と言ってきたのです。彼は会社の社長室を引き払って近くのビルに小さな部屋に移り、そこで日々の会社の「雑音」から逃れて、会社の戦略、商品の購入計画、銀行との取引などの大局的な仕事に専念しようというのです。私は日常的な業務を担当します。人事、在庫や店舗、営業マンの管理など。私たちはそれぞれ自分の性格にあった仕事を担当するので、うまくいけばいいな、と思っていました。彼は日常の細々した雑務に携わっている時間はありませんでしたし、私はといえば、そういうものを整理するのが性にあっていました。一方、銀行マンを相手にギリギリの駆け引きをするような才能は私にはまったくありませんでしたし、彼はそれに長けていたのです。

そういうわけで、突如として、私は毎朝ネクタイをしめて職場に向かう、ということになったのです!もちろん、やらなくてはならない仕事は際限なくありました。会社は大変柔軟な姿勢をもっていたので、思いついたことは何でもやってみることができました。私たちの仕事の基本は、お得意様である学校の音楽プログラムに必要なものを提供することで、ほぼ決ったサイクルの仕事ではありましたが、おかげでおもしろく仕事をすることができました。

しかし、今、ここ青梅の家で、たった今彫ったばかりの色版から出た木屑に埋もれてこのニュースレターの原稿を書きながら当時をふりかえってみると...あれは本当に自分だったのだろうか、という感じがしてしまいます...ビジネスマンのデービッド。たいていは書類が積み上げられている大きな机の前に座り、音楽会社の送ってきた宣伝用サンプルテープを聞き、学校で楽器の貸し出しをするために全国をかけまわる営業員達のチームのルートを考え、店内の陳列方法を考え、在庫のチェックをし、コンピューターを点検し、就職希望者の面接をし...その他、管理職のところにまわってくる様々な雑用をこなし...

当時、私は自覚していませんでしたが、これらのことは、後に私が木版画家として生計をたてるようになった時に大変役にたつことになったのでした。今日、私は「版画界」にたくさんの友人をもっており、彼らの多くが実によい作品を作っています。しかし、私のように、版画の仕事で生計をたてることができる人はごくわずかです。音楽店で身につけたビジネスの基本が、私の成功の基礎を築いたことは疑いようがありません。

この「百人一緒」がその一例です!ある日、ビルが私のオフィスにやってきて、学校関係の顧客とのつながりを密にしておくために、会社のニュースレターを作ってはどうか、と言ってきたのです。私たちはふたりして原稿を書き、年に数回、ニュースレターを発行しました。後に、私がここ日本で百人一首の版画を作り始めた時に、顧客にニュースレターを送るということがスムーズにできたわけです!

しかし、その頃の記録を見てみると、版画製作を忘れてしまっていたわけではありません。日本とは違ってカナダでは、小さな会社の管理職でも、夜それほど遅くない時刻に家に帰ることができるのです(繁忙期は別ですが)。日本から持ち帰った材料や道具を使ってみる時間はたっぷりありました。家の大きなテーブルの一方に私が座って彫りや摺りをし、彼女はもう一方に座って語学の勉強にいそしみました。

こんなふうに、生産的でおもしろい活動に明け暮れるうちに、日々が過ぎていきました。そして、私がその仕事について半年ほど経ったある日、ちょっとしたニュースがもたらされました...私たちふたりは3人になることとなったのです...

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