デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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心の空白

百人一首シリーズの完成を目前に、私は高揚した気分でしたので、近頃のニューズレターには明るい話題が多くありました。ですから、この記事を書かなくてはならないということは、より一層心に重く響いてくるのです。

一月に放映された、私の仕事に関してのドキュメンタリー番組は、昨年最後の数カ月に集中して撮影されました。中でも、長年私を支えてきてくれた職人達を訪問する場面を撮影するのは、私にとってハイライトの一部でした。その中のお二人、彫師の伊藤進さんと版木職人の島野慎太郎さんとは長年のおつき合いでした。その二人ともが、伊藤さんは昨年の暮に、島野さんは今年の1月にと、続けて亡くなってしまい、こうして皆さんにその訃報をお伝えしなくてはならない事は、悲しくてやりきれない思いです。

島野さんに初めてお会いしたのは、今から 16 年ほど前のことで初めて日本に旅行した時でした。彼の住所をどこかで見つけて、経験もない外国人がいきなり出かけて行って版木を注文したらどんな顔をするだろうかと、幾分ためらいながらも訪ねていったのです。ところが、こんな心配はすぐに吹き飛んで、島野さんは快く注文を引き受けてくれました。それ以来、私は何百という版木を島野さんにお願いしてきました。彼が居なかったら、この百人一首シリーズの完成もなかったのです。

知り合って間もない頃、島野さんは、一緒に飲みに行こうとよく誘ってくれたのですが、私の性格上どうしても島野さんの希望に添えませんでした。私は、お酒をほとんど飲めなく、人とのつき合いもあまり上手な方ではないのです。とうとう一度も彼の誘いに乗りませんでした。島野さんは、いつの間にか誘うのを諦めてしまいましたが、きっと付き合いの悪い冷たいやつだと思っていたことでしょう。

この世に島野さんが居なくなってしまった今となっては、悔やまれるばかりです。きっと楽しい話がたくさんできて、伝統木版画についても何かと教えられることが多かったはずです。

彼は弟子を取らなかったので、今頃あの仕事場は、道具や重い作業台が片付けられて、物音ひとつない空間となっていることでしょう。かつて、あの界隈では、たくさんの男達が版木職人として働き、近在の彫師達に版木を調達していました。それなのに、今は.... ひとりもいないのです。

伊藤さんとは、知り合ってからまだほんの10年でした。その間、訪ねたのは何回でもなく、5回あったでしょうか。いつも必ず助け船となってくれ、惜しみなく何でも教えてくれました。私は、彼が話す事をできる限り理解しようと、必死でした。この10年で私の版画に上達が見られたとしたら、伊藤さんの助けに因るところが大いにあります。言葉として聞かせて頂いた以上に意義深かったのは、テレビの撮影スタッフと伊藤さんを訪ねることが3回ほどあり、その折、実際に彫るところをこの目で見られたということです。彫刻刀で版木を彫って行く様子は、言葉で表現しきれるものではありません。でも、あの数分の観察のお陰で、本当の彫りがどんな物なのかを目のあたりにすることができたのです。毎回、家に戻ると、見てきた事をできる限り真似てみました。

私が最後の訪問をしたのは、伊藤さんが亡くなるほんのひと月程前でした。彼はこの時、「掠れ彫り」(毛筆の掠れを表現する技術)という基本的技法をやって見せてくれたのです。私はすでに、新しく始めた摺物シリーズでこの技法を用いています。

伝統木版画を彫る熟練技は、5回の訪問では到底教わりきれません。もっと彼の側に居られるよう、どうしてもっと強引になれなかったのでしょうか、今となっては悔やまれてなりません。伊藤さんはいつも忙しかったから.....。彼が弛まず彫り続けた版木、その版木で版画が摺られ、摺られた作品は今、世界中でたくさんの場所を美しく飾っているに違いありません。彼の版木から、何千何万という版画が摺られ、これからも摺られていくことでしょう。彼の残した業績は計り知れません。そして、あの優しい人が、小柄な体を彫台に覆い被さるようにして、版木に目を近付ける姿は、このカナダ人の心の中に、永遠に残る事でしょう。

伊藤さんは、死に至る数日前まで彫りの作業を続け、そして突然、こっそり逝ってしまったのです。私も、そんな風に最期を迎えたい......。

私を導き、助けてくださったお二人に、もうお礼を述べることはできません。でも、二人とも、私がどんなに感謝しているか、きっと分かっているはずです。彼らが受け継いできた伝統技術を、ほんの少しだけでも長く維持して行きたいと思っております。 

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