デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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ハリファックスから羽村へ

前回からの続く...

高校の最後学年が終わりに近づくにつれ、自分の将来について考えなくてはならない時期となってきました。当時の私がどんなことを考えていたのかをはっきりと覚えてはいませんが、実際のところ、大学へ進学する以外の道を考えてはいなかったように思います。カナダの大学に入るのは、日本とは違って、とても簡単でした(少なくとも、私の時代には)。高校の成績証明書を提出し、入学に必要な書類を書き、それほど高くない授業料を支払うだけでよかったのです。入学試験などというものは一切ありませんでした。私のように、特別優秀ではない高校生でも、十分入学することができたのです。

日本の大学とアメリカやカナダのほとんどの大学とを比較してよく言われるのは、「日本の大学は入るのは非常にむずかしいが、卒業するのは簡単だ。北アメリカでは、入るのは非常に簡単だが、卒業するのはずっとむずかしい。」 ということです。そのとおり、私がいい例でした。簡単に入ったものの、簡単に脱落してしまったのです...

私の入学した州立大学には、よくできたクラシック音楽のコースがあり、私は多くの授業をとりました。楽曲、音楽史、合奏、フルートレッスン、ピアノレッスン、それから音楽とは関係のない必修科目の国語(英語)と美術史です。それほど悪くない内容だとは思いませんか? これは音楽家の卵たちに施す教育としては、調和がとれていてよく考えられていると思います。でも、残念なことに、当時の私はまだ若くて、そんなふうに考えることができませんでした。私はフルートが吹きたかったのです! 音楽の理論や歴史なんて勉強したくありませんでした。ピアノもやりたくありませんでした。もちろん、国語や美術なんて時間の浪費です。国語? 美術? やれやれ、僕のやりたいのはフルートなのに!

退屈な話を聞くために教室に座っている時を除けば、私はいつもフルートを吹いていました。大学は私の家からそれほど遠くはありませんでしたが、交通の便がなかったので、私は大学構内の学生寮に住んでいました。当然、部屋でフルートを吹くのは無理でしたが、地下室をうろうろしていた時に、使われていない倉庫を見つけて、そこを練習場所にしていました。昼も夜も...

当時バンクーバーの交響楽団は、学生がただ同然で演奏を聞くことができるように配慮してくれており、私と友達はシーズンチケットを手に入れました。コンサートの前になると、私達は大学の図書館に攻め入って、演奏される曲目の総譜を借り出し、それらをコンサートホールに持って行きました。曲が演奏されるたびに、私達はむさぼるように総譜をながめ、小さな懐中電灯のあかりで細かい音符を読み取ろうと苦心しました。シーズンチケットをもっているということは、当然、私達はどのコンサートでも同じ席に座ることになります。私達のすぐ前の席に座っておられた方に、今、おわびすることができたらいいのですが... 演奏の間、彼は、何度私達のほうを振り返って「シー」と注意しなくてはならなかったことでしょう... でも、確かに私達は、そこで音楽についてたくさん学ぶことができました...

残念なことに、本来の学校のカリキュラムでは「しっかり学ぶことができた」とは言えません。私の個人学習の時間は実に賢く組み立てられていました(私の目から見れば!)。フルートの練習に使う時間が—100%。その他のことに使う時間が—0%。春の期未試験が行われる頃には、結果はやる前からわかっていました...

試験結果が最悪だったのは、当然、ふたつの「余分な」科目、国語と美術でした。27年後になってみると、私は笑わずにはいられません。今、私は毎月木版画を作り、それと、エッセイやニュースレター、新聞のコラム、などを書いて、生計をたてています。国語と美術です! もし私があの頃、本当によく勉強していたら今頃私は何をしていたでしょうね!?

次回へ続く...

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