デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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さあ皆でいっしょに

一年前、私はあるエッセイコンテストの授賞式に参加しました。それ以前の、そういった式に出た経験と言えば、せいぜい娘の保育園での、それほど厳格でない小規模の卒業式程度だったのです。

けれども、この授賞式はとても社会的に意味のあるもので、賞状を授与される人達は小学生の部から大人の部まで、そしてまた外国人の部からもとあらゆる層から選ばれていました。二時間にもわたるリハーサルとそれに続く本番があり、その間、参加者のほぼ全員が礼儀作法...つまり正しいお辞儀の仕方...に困惑していたということに、私はとても驚きました。

そこで、参加者たち一人一人が壇上に上がって、どうすればいいのか苦戦する様子を観察しました。理想的な形は当然、賞状を渡す人と受け取る人とが同時にお辞儀をし、受賞者が前に進み出て、賞状を受け取ると同時に再び礼をし、それから一歩下がってもう一度同時に礼をして壇上を降りる、というものです。けれども、ほとんどの人がこの通りにはできなかったのです。

ある場合には、賞状を授与する人がかなり深く礼をして、受ける側の人が軽く頭を下げる程度でした。すると、間違えに気付いた受賞者は、急いで深いお辞儀をしやり直したのです。これに気付いて渡す側が、それに合わせてもう一度礼をすると、たいていは受賞者の方がもう頭を上げてしまっていると言った具合でした。やっと賞状が手渡されるほんの合間があり、再びお辞儀の繰り返しが始まります。いつ礼を始めるか、どのくらい深く頭を下げるのか、手はどうするのか。誰もどうしたらいいのか判っていないようでした。日本人なのにです! それは、まるでよその国の習慣と悪戦苦闘している外国人の集まりを見ている様でした。

私はと言えば、本当に上手にしたかったので、順番が近づいてくると、授与する人がお辞儀をする間合いを注意深く観察してそれを覚えようとしました。ところが、私が賞状を戴くために壇上の方に歩いて行くと、授与する人が外人の部の賞状を渡す人と変わってしまったのです。入れ替わった人は別の間合いで行ったので、当然の事ながら私の努力は無駄になり、自分も彼の動きに合わせようと、ぴょこぴょこ頭を動かすはめになってしまいました。加えて、授与の最中にもへまをしてしまって、賞状を受け取る時はっきりと大きな声で、「ありがとうございます。」と言ってしまったのです(これは恐らく、子供の頃の母の厳しい躾によるものだと思うのですが...)。私が席に戻ったとき、隣の人が親切に、こう言った場合は習慣として黙っているものだと教えてくれました。出るのは溜息のみ...。ああ、外国人にだって日本人と同じように上手に出来ることを見せたかったのに。

でも考えてみると、うまくやった事になるのではないでしょうか。少なくとも、その日の午後ずうっと見ていたところからすると、私は他の人と比べて、良くも悪くもない程度には出来ていたのです。参加者達が、一見簡単そうに見える事の運びにてこずっているのを目の当たりにして、お辞儀の仕方が、明らかに現代日本の社会で失われて来ている事柄のひとつであると言うことに気付きました。もちろんお辞儀は、ここ日本において今でも重要な生活の一部で、毎日少なくとも数回、自分のつま先の汚れを調べるかの様な動作をせずに過ごすことは難しいのです。家の中で冬眠でもしないことには...。もちろん、自分の子供と話をする場合は、お辞儀をするようなことはないですが。(でも、自分の家に一人でいる時でさえも、このお辞儀の作法からは逃れられないことに気付いたのです。それは、電話が掛かって来て話をしている間、見えもしない相手にお辞儀をするという馬鹿げた事をしているという事です。)

生活する為、あるいは仕事で日本に来る西洋人の多くは、お辞儀作法に少なからず当感します。それは、どうすればいいかという単なる機械的な動作についてではないのです。彼らにとって自分達を卑屈な立場に置くように見えるこの慣習に従うことは本当に難しいのです。それはつまり、他の人の前で腰を屈めて礼をすることは、本当に不愉快的な事だからなのです。もう何年も前のことですが、自分の働いていた会社の社長と一緒に、仕事で日本に来たことがありました。その人は、言わば率直な、しっかり相手の目を見て握手をする、といったタイプの人だったので、このお辞儀が私たちを迎えてくれた人に対して、どうにも出来なかったのです。そして、私が日本人と同じようにお辞儀をすることで挨拶を返しているのを、とても不愉快に感じたに違いありません。彼の心の中には、男らしい人はしゃきっと立った姿勢で居るべきで、へつらう人だけがこそこそ頭を下げるもの、という思いがあったのです。

日本での経験がもっとあれば、最も深くお辞儀をする人が一番年配の人である事もあり、卑屈であるのどという考えは手頭ないということに気付きます。もちろん階級や社会的地位は、深く関係していて、お辞儀のこつをつかんでいる人は、適切な礼の深さと頃合いを極めて上手に推し量れるのです。

でも、そういった感性は間もなく失われて行くように思えます。今時の若い人で、このような習慣上の微妙な差異を大切に思う若者は、あまり多くありません。そして式典の間に分った様に、今の人達は、お辞儀の仕方がうまくないのです。

これは残念な事のように思えます。というのは、式典でお辞儀を上手にこなした少数の人達には、洗練された姿勢と上品さがかねる兼ね備わっていたからです。そういった友達は、機械的に記憶された一連の動き通りに動くロボットの様ではなく、自信のある礼儀正しい個人といった印象を与えました。私には、そういった人達が羨ましく、この次同じような事があったら、きっとうまくやると密かに決めているのです。きっと正しい礼の完璧なお手本になります。ただし問題は...いつ次の賞を取れるかって言う事なんですよね。

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