デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

41号から最新号まで

1号から40号まで



Categories:

ハリファックスから羽村へ

(前回からの続き)

私達の高校の音楽の授業は、悪くありませんでしたが、私から見れば欠点がありました。合奏の形態が主にバンドで、オーケストラではなかったのです。これはつまり、私のようにオーケストラ奏者になりたい者にとっては、自分のやりたい音楽...クラシックの交響曲...を演奏する経験がつめない、ということを意味します。ですから私は、バンクーバーに「青少年交響楽団」があることを知った時は、跳び上がって喜びました。オーケストラに関わるチャンスです。この楽団には、「本物の」交響楽団と同様に、弦楽器、木管楽器、金管楽器、もちろん、演奏している曲目はそれほどむずかしいものではありませんでしたが。私は入団のオーデションに合格し、フルートパートの末席につくことになりました。

私の家は市街からかなり離れた郊外にあり、バスが通っていなかったので、毎週末の練習にはヒッチハイクをしていかなくてはなりませんでした。バンクーバーはカナダで最も雨の多い所です。私は、フルートを抱え、親指を立てて、市街に通じる道の端に立ち、乗せてくれる車を待っていたあのじめじめした長い時間を、簡単には忘れることはできません。家に帰るのはたいていはもう少し楽でした。その頃、父はナイトクラブのミュージシャンとして働いていたので、私はしばしば父に送ってもらえたからです。私達の楽団の練習が終わると、私は父がその夜出演しているクラブに行って中に入れてもらい、父の仕事が終わるのを待ちました。私が頭のいい子だったら、父のやっているような音楽に興味を示したでしょう。でも私はそういう音楽を見下していました。僕がやっているのは「本物の」音楽だ、ベートーベンとか、そういうものだ。でも、父のやっているのはジャズにすぎないじゃないか......何年かして、もっとものがわかるようになって、この世には別の種類の音楽もあるのだ、ということがわかった時には、私はこんな素晴しい機会を逃してしまっていたことを後悔しました。でも、当時の私は、そんなものを聞く耳をもっていなかったのです。

私は来る日も来る日も練習に練習を重ね、フルートパートの末席にそう長く居座ってはいませんでした。まもなく私はパートリーダーになり、その楽団にいる間はずっとそうでした。毎年、いくつものコンサートをしました。時には、地方をまわって、公民館などで演奏することもありました。そういったところでは、交響楽団の演奏を聴く機会というのはほとんどないので、私達は学生オーケストラにすぎませんでしたが、ずいぶんたくさんの人が聴きにきてくれました。コンサートの曲目には、いつも「協奏曲」が入っており、私はしばしば独奏者に選ばれて、ひとりオーケストラの前に出て、モーツアルトのフルート協奏曲やその他の独奏曲を演奏しました。これは私には大変良い経験でした。私はそういう場であがってしまう、ということは別にありませんでしたが、やはりその前になるとちょっと落ち着かない気持ちがしました。幸いなことに私は、こういう時、手が震えたりするのではなく、ただあくびがでてしかたがない、という状態になるのです。私は名前が呼ばれて出で行く前には、舞台裏に何気ない様子で立ち、軽くあくびをして、落ち着き払って退屈している、というふうを装っていました。みんなこれにはだまされたのではないかな...

コンサート、コンサート、そしてまたコンサート...交響楽団、学校のバンド、それ以外にも参加していた地域のバンド...私の演奏したいろいろな曲やいろいろな場所を振り返ってみると、それらはみんなひとつの大きな流れのなかにとけこんでいきます。私がどれほど音楽に夢中だったかということは、私の寝室のドアに貼っていたものを見ればよくわかるかもしれません。それはスポーツ選手のポスターでもなく、ロックスターのポスターでもありません...それは楽譜の一部でした。ラベルの管弦楽曲の中の長くむずかしいフルートソロの部分。大きな交響楽団の一員となって美しいソロを奏でること...それが、私の目標でした。私はその目標にどのくらい近づいていたでしょうか...

次回に続く...

コメントする