デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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秋の色

一見してそれとわかる。彼は料理人に違いない。白いユニフォームにエプロン、帽子からみて明らかだ。でもレストランの屋根の上で、一体彼は何をしているのだろう? それほど急な傾斜ではなく、危険があるようには見えない。小さく平らな篭を手に、建物に向かって伸びている木の枝の間を何度も行ったり来たりしている。連れが、早く中に入りたがっていたので、彼がしていることを見極めるだけの時間はなかった。まさに「かきいれどき」であり、この有名なレストランは明らかに混み始めていた。

以前私が開いていた英語教室のメンバーが、ちょっとした「紅葉狩り」をしようと提案した。場所は奥多摩。多摩川ぞい。そのあたりには何度も出かけたことがあるが、秋のこの時期は初めてだった。シーズンの人混みを避けたいという気持ちからだが、秋は文字どおりに忙しいからというのが最大の理由だった。しかし長年にわたり、そこがどんなに素晴しいかという話を聞かされてきたので、話があった時、ためらわずに申し出を受けた。

ものごとは予定通りには進まない。メンバーの一人はキャンセルし、遅れた人もいた。駅では電車到着が乱れていた。どこかで何かトラブルがあったということだ。こんな次第で、そのレストランは予定より1時間遅れて到着した。しかしキャンセル客があったらしく(おそらく電車の事故の影響だろう)、驚いたことに、席を用意したもらったばかりでなく、店で最上の場所へ案内された。川を見おろせる隅のテーブルだ。大きなガラス窓を通して暖かな日差しがテーブルに届いている。戸外の、川の反対側一面には、私たちが来た目的、秋の色が広がっていた。

メンバーは十分に堪能していた。「素晴しい」「まさに一番いい時に来たわ」「今年は特に色がきれい!」等々。実際に感じのいい光景だった。水の表面に反対する光が流れをさかのぼり、緑や黄色、茶色のパノラマにきらめいている。皆が私に振り返った。「こんな光景、あなたの国にはないでしょう?」

「ええ、そうですね。まったく同じというわけでは....」私はつとめて声の調子を平静にたもった。しかし、彼女たちは私のことをよく知っており、私のためらいが不審をもたらした。「どうしたんですか? 日本のモミジはきれいじゃないですか?」 私は苦境に立たされた。皆、自分たちの美しい光景が自慢であり、それを外国人に見せられて喜んでいた。それを批判するべきではない....しかしカナダの秋の色をどう言えばいいのだろう? 炎に包まれたようなケベック州の山裾の、鮮やかな赤やオレンジ、黄色をどう説明すればいいだろう? とても言葉では言い表せない、まばゆいばかりの色に飾られた田舎のハイウエーをドライブすることを、からっとした大気を、信じがたいほどに深い空の青さをどう説明すれば....? こうしたすべてを彼女たちの秋景色を批判しているようには思われずに説明することができるだろうか? でも、すでに述べたように、私たちは互いをよく知っている。だから私は話した。少々気をつかいながら。

こうなった以上は、もう心配する必要はなかった。皆は注意深く、カナダ東部の秋の輝きを説明する私の話しを聞いた。しかし感銘は受けなかった。私の説明が不十分だったからではない。おそらく私はオーバーに説明した。彼女たちにとっては「鮮やかな」「華やかさ」「生気」「明快さ」といった要素は肯定的なものではなかったというだけのことだ。私が話した内容のイメージは、強すぎた。「うるさい」のだ。自分たちの秋の「面目をつぶ」されたくはない。どちらかというと繊細な影やsubtlety、穏やかさを望んでいるように思えた。

こうした話しをしていたちょうどその時、メンバーの一人が、私の目の前に置かれた皿を示した(あれほど美しい焼き物を説明するのに、単に「皿」と言う言葉を使えるのなら)。食事は、12品くらいの小さなコース料理で、着物を着たウエイトレスが運んでくれる。今運ばれてきた皿にはひとくち大の料理が5つ乗せられている。肉や野菜の盛りつけだ。友人は5品をひとつづつ指さしてから窓を示した。最初は、何をしているのかわからなかった。別の彼女が詳しい説明を試した。5つに品々は秋の色に彩られており、窓から見える色と完全に一致していた。料理は目の前の景色を味わい深く(両方の意味で)表現している。私はうなずいた。礼儀正しい彼女は、こうしたものが私の国にありますか、とは尋ねない。

それからの食事はまるでゲームのようだった。それぞれの料理にはどんな意味が隠れているか? たいがいは見た通りの、シンプルな季節の野菜だったが、もっと複雑なものもある。季節にちなんだ詩的な名前がつけられた料理だ。さらに、いくつかの料理は私たちを圧倒した(彼女たちを打ちまかした、というべきか)。食事の最中、頭上に明りがつき、料理を乗せた皿が出された。その料理の隣にそうっと置かれていたのは、端がカールした明るい茶色の楓の葉。そう! このためにあの料理人は屋根の上にいたのだ。私たちの食事にそえるために、張り出した枝から食材を集めていたのだった!

私の連れは、このときはあまり礼儀正しくなかった。笑いながら尋ねる。「あなたの国には....」 この質問をさえぎることはできなかった。昼食を飾るため、屋根に登って紅葉を集めるという発想は、いいや、カナダではありえないと認めざるを得ない。

いわば引き分けだ試合になった。彼女たちの考えでは、カナダの秋はちょっとうるさいのだ。「美しい」。そう。しかし、やや洗練さに欠ける。私にとっては、日本の秋は基本的には感動的なショーではない。それを日本人はそれぞれが詩的な「ゲーム」で補っている。まったくの偶然で、互いの国にはそれぞれの国民の性格に適した秋があるのか。あるいは人々の性格は、自分たちの秋の紅葉で形成されるのか? ほんとうに興味深い問題だ....

それは、一見して明らかでした。白い服に、エプロンと帽子、間違いなくコックさんでした。でも一体全体、レストランの屋根の上で、彼は何をしていたのでしょう。屋根は、それほど急な勾配ではなく、さして危険そうには見えませんでした。その人は、小ぶりで平らな篭を手に、建物に覆いかぶさる枝を縫って、ただ、行ったり来たりしていたのです。同行した仲間が、席があるかどうかを急にして、しきりに中に入りたがったので、彼が何をしているのかを見極めるまで見ていることは、できませんでした。そこは、とても評判のいいレストランで、シーズンたけなわでしたから、明らかに混み始めていたのです。

ある時、以前私が開いていた英語教室のメンバーが、奥多摩の多摩川沿いで、紅葉狩りをしようと言い出しました。私はそれまでに、そのあたりを何回となく歩いたことがありましたが、紅葉の季節には、一度も行く機会がなかったのです。混み合う季節を避けたかった、ということもあるのですが、秋はいつも忙しい、と言うのが主な理由でした。奥多摩の紅葉の素晴しさについては、何年もの間、耳にして来ていたので、この時、ためらうことなく誘いに応じました。

でも、事はなかなか計画通りに行きませんでした。一人は来られなくなり、一人は、遅れて来たのです。駅では、路線のどこかでトラブルが起きたため、ダイヤが乱れていました。こんな訳で、わたしたちは、予定より一時間遅れてレストランに着き、席は取れないものと諦めていました。ところがです、予約の取り消しがあったのでしょう(恐らく路線トラブルのせいで)、驚いたことに席が取れたのです。それも、一番良い、川を見下ろせる角のテーブルです。それは、暖かい太陽の光が降り注ぐ、大きな窓際でした。そこから、反対側にある山の斜面一面に広がる、色とりどりの葉が見渡せたのです。

同行の人達は、十分い堪能していました。「わきれい!」 「真っ盛りに来られたわね。」 等々。それは、とても心地よい光景でした。水面で反射した太陽の光が上方に向かって行き、緑や黄色や茶色のパノラマにきらめいていたのですから。暫くしてから、みんなが私のほうを向いて、こう聞いたのです。「デイビッドの国には、こんな景色ないわようね。」

「う〜ん。全く同じ、じゃあないけど...」 あいまいに答えようとしていたのですが、この女性たちは、私のことを良く知っているので、ためらっているのが分かってしまったのです。「どうしたの? 日本のもみじがきれいじゃないって言うの?」 さあ、わたしは、困ってしまいました。彼女達は、日本の美しい景色を自慢に思っていましたし、外国人の私にそれを見せてごきげんだったのです。批判的になっちゃいけない... だけど、カナダの秋の色をどう説明したらいいんだろう。ケベック州の山々を、燃えるような赤や、オレンジや黄色で覆い尽くされた景色を、どう説明したらいいんだろう。筆舌に尽くしがたい、鮮やかな色を広がりに囲まれた、田舎のハイウエイをドライブする気分を...  からっとした空気、信じ難いほど深く青い空を...  こういったことを、彼らが自慢の秋の景色を批判するようにではなく、どう伝えればいいんだろう。でも、さっきお話したように、私たちはお互い、気心が知れているので、ちょっと気を使いながら説明してみました。話し出してからは、もう心配は要りませんでした。彼女達は、カナダ東部の秋の輝きを説明する私に、注意深く耳を傾けていましたから。とは言っても、感動はしませんでしたが、それは、私の説明が旨くなかったというよりもむしろ、誇張し過ぎたため、のようでした。彼女達にとって、「輝き」、「大胆さ」、「鮮やかさ」そして「清澄さ」といった要素が、ただ単に、取り立てて良いものではなかったからなのでした。私が与えたイメージは、強烈すぎ、やかましすぎたのです。秋自体に、迫って来る感動を求めていたのではなく、どちらかというと、繊細な影や、淡い変化、そして穏やかさ、を求めていたのです。

こんな事を話しているちょうどその時、グループの一人が目の前にあるお皿に私の注意を引き付けました(とても美しい陶器に、乱暴にも「皿」などということばを用いればですが)。食事は、12種類ほどのコースで、和服を着たウエイトレスが運んで来ました。丁度、肉や野菜で一口大に作られた5種類の料理が皿にならんで運ばれて来たときの事です。仲間の一人が、料理の一つ一つを順番に指さし、それから窓の外を指したのです。初めのうち、私は彼女が何を言おうとしているのか分かりませんでした。それで、別の一人が詳しく説明してくれたのです。5種類のそれぞれの品は、秋の彩りで、窓から眺められる色とぴったり一致していたのです。料理は、目の当たりに広がる景色にふさわしく、色といい、味といい、なかなか味わい深いものでした。このことにようやく気づいて、私はうなずきましたが、説明して彼女は気を利かせて、「こういったものがカナダにもあるのか」などとは質問しなかったのです。その後の料理は、「それぞれの料理に、どんな意味合いが込められているのか。」などと、まるでパズルのようになりました。たいがいは、見た目にすぐそれと分かる、シンプルな季節の野菜でしたが、なかには複雑なものもありました。季節にちなんだ、私的な名前がつけられていたりして、わたしたちは(彼女たちは、というべきでしょうか)完全に圧倒されてしまいました。こうして食事をしている時、頭の上の明りがつき、器の上の料理の脇に、そおっと置かれていた物が...端がカールしている、赤茶色の楓の葉が目に入ったのです。これだ! この為に、あのコックさんは、屋根の上に居たのです。私達の食事に添えるために、張り出した枝から材料を集めていたのです。

このときばかりは、彼女たちも黙っていませんでした。笑いながら、「ねえ、デイビッドの国では...」もう、このせりふを最後まで言わせる事もなく、私は認めざる終えなかったのです。コックさんが、屋根の上で、料理の添え物にする紅葉した葉っぱを拾い集めるため、うろうろするなんて... こんなことカナダでは、ありえないと言うことを。

こんな訳で、私達は言ってみれば引き分けのおうな形となりました。彼らにとって、カナダの秋は、ちょっとけばけばしく、きれいには違いなくてもも、少しばかり洗練さに欠けるのです。一方、私にとって日本の秋は、根本的に館動的な物ではないのです。日本人は、こういった私的な”あそび”をすることで、補っていますが。ま、双方がそれぞれ、思い思いの形で秋を受け止めている訳です。それにしても、この二つの国がそれぞれ、そこに住む人に性格にぴったりの秋を作り出しているというのは、本当に偶然なのでしょうか。それとも、秋の葉の彩りといったものによって、住んでいる人達の性格が作られてきたのでしょうか。実際、興味深い問題です...

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