(ついに完結)
最初の年に、小さな「フリースペース」で「ミニ」展示会を開いた後で、これからはお客さんに、もっと興味をもってもらえるような展示会を開こうとつとめました。羽村市には、私がしたようなことに使えるギャラリーも展示場もありませんが、となり町の青梅に、感じのいいギャラリーを見つけました。 2回目と 3回目の展示会にはそこを借りました。実演をするために、仕事の道具と版木を持ち込み、作品の内容を補足説明するために、様々な写真なども展示しました。マスコミはいつも積極的に記事を書いてくれましたので、ギャラリーが都内から離れた場所にあるにもかかわらずお客さんも多く、定期購読の申し込みも確実に増えていきました。
91年と92年には、テレビ関係者や新聞記者、雑誌のカメラマンがひっきりなしに私の仕事場に取材に訪れました。ですから、記事を切り抜いたスクラップブックもかなりの厚さになりました。私は、かつてない最良の経験をしたようです。マスコミから「いい意味」での注目を浴びて、「悪い意味」で取り上げられることは一度もありませんでした。特別に有名な人物にはプライバシーもなく、通りを歩いているだけで人目をひきます。しかし幸いなことに、私にはそんなことは起こりませんし、この先も決してないと信じています。かわりに、スクラップブックの記事は、とても素晴らしい個人的な楽しみを与えてくれました。このことは認めざるをえません。
91年の秋のことです。私は百人一首シリーズの四分の一を完成させました。その時に、「英語教師兼版画家」から「版画家」へと、立場が変わりました。自分で予定していた通りの方法ではありませんでしたが。版画の仕事だけで生活ができるようになったから英語教師をやめたのではなく、妻がカナダの学校へと出発したから、ささやかな教室を閉鎖しないわけにはいかなかったのです。版画の仕事をして、教室の準備と授業、さらに家事を適切にこなし、二人の娘の面倒を見る時間は、とうていとれませんでした。どれかをあきらめなければなりません。それが英語を教えることでした。私は 5年間、英語教室を続けました。これがついに終わるのはたとえようもない心の痛手でした。 5年の間、近隣の何十人もの人々と知り合いました。下は幼児から上はおばあちゃんたちまで含まれました。2023+回を越える授業を通して、これらの方々が英語でコミュニケーションする能力が高まるように、また、そのことよりもおそらくは重要な、自分達の発想とはかなり異質な思考方法にふれるようにと、相当な努力をしてきました。私の人生にかすかなさざなみをたてて通り過ぎた方もいますが、大きな影響を与えてくれた方も大勢います。六畳間の座布団に座って、何回も何時間も議論を重ねる中で、私は、この国のこと、人々のことをたくさん学びました。逆もまた真なり、とも考えます。私自身も、それぞれの方々の人生になにがしかの影響を与えたと思います。むくわれることの多い 5年でした。
自分自身で時間を管理できる立場になったことは、とても喜ばしいのですが、経済的には苦しくなりました。家計はいつも赤字です。また、英語教授でたくわえたわずかばかりの貯金は、毎月だんだんと消えていきましたから、私はもっと多くの方に、自分の仕事を知ってもらう方法を模索しました。それで、93年の 1月に東京都内で展示会を開くことに決めました。都心に住んでいて、きっと私の仕事を気に入ってくれるに違いない人々のことを考えていたのです。前に青梅で展示会を開きましたが、そこまでは遠くて来られない、という人たちを想定していました。計算してみると、「へんぴな」青梅のギャラリー(一日 1万円かかります)には週に 250人が集まり、 9名の方が定期購読者になってくれました。ということは、にぎやかで「人の集まる」新宿で見つけたギャラリー(一日10万円かかりますが)には相当な人数が集まるに違いありません。おそらく財政的な問題を解消してくれるだけの定期購読者が見込まれることでしょう。
前年の収入の五分の一すべてをつぎこんで、わずか 6日間の展示会を開くことは、コインを投げて、裏か表かを決めるような賭けでしたが、思いきって会場を予約しました。すべてを含めてちょうど 100万円使いました。ギャラリーの費用に写真代、搬送費用、パンフレット代金などなどです。さて、結果はどうだったでしょう? その週の終わりに、 4人の方が契約してくれました。前の年に青梅で開いた時より 5人少なかったわけです。もちろん、新しく契約していただいた 4人の方にはこのうえもなく感謝しています。このことはおわかりいただけると思います。しかし、全体的には残念な結果に終わったことを認めないわけにはいきません。これが普通なのだろうと考えています。前年の展示会は、「バブル」の絶頂でしたから、そちらのほうが例外だったのでしょう。
私は頭がおかしくなったのかどうかわかりませんが、 6年の 1月に、また同じギャラリーを予約しました。東京での展示会は「あきらめ」て、地方のギャラリーにもどることは考えられません。この 1年で景気がよくなったとは思いませんが、背を向けて逃げ出したのでは、どこにも行き着かないだろうということはわかります。10年がかりの計画が、半分まで達成したことにより関心を呼び、多くの方が来てくれて催しが成功することを望んでいます。去年の今ごろ、展示会の前ですが、私は愚かにも自信過剰でした。あらゆる問題は解決するだろうと思っていました。しかし(手痛い)教訓を学びましたから、今年は多くは期待していません。黒字になるかもしれませんし、赤字のままかもしれません。いくら費用がかかったか、どれほどの人が集まったか、何人が定期購入してくれるか、ということよりも、50枚の作品が壁にかかるという事実が残ります。 5年前には何もなかったのです。50枚! こうして作った作品が全部壁にかかっているのを見るのは、最高の気分でしょう。多くの人が来てくれても、あるいは誰も来なくても、やはり気分は変わらないでしょう。
展示会が終われば、片付けをして家に帰り、残り半分の旅に出ます。この先 5年間に何が起きるか予測はできません。(実際、今までの 5年間に起こったことは、少しも予測できませんでした。) しかし断言できることはあります。さらに50枚が生まれるということです。これまでの50枚よりもさらに内容がよくなっていればいい、と思います。私はいまも、この企画に熱をあげていますし、意欲はおとろえません。89年の初頭、大昔とも思える、今から 5年前と同じようにです。技術が着実に進歩していることが理由の一つであり、さらには、今もこの工芸から新しいことを学んでいるからです。収集家の方とのコミュニケーションを通じて意見をうかがうことも、重要な要素の一つです。けれど、根本的な理由は、この仕事がとてもやりがいがあるからだと思います。
しばらく前に新聞で映画の批評記事を読みました。男達の一団が体験した「変化」を扱ったものです。彼等は太っていきました。「自分達が得たもの」は「自らが得ようとしていた」ものだ、と男達にはわかっていました。気がついていたのです。「この地点からは、坂道を下だるように落ち目にになる」と。といった話です。男達は30代のなかばです。数週間前に、私は42回目の誕生日を迎えました。このこと自体はそれほど嬉しくもありません。しかし自分が「下だり坂」だとは決して思いません。自分は今、何か特別な人間だとは考えていません。ごく普通だと思います。しかし、この映画の中の男達の考え方は間違っているばかりでなく、ひねくれている、と断言できます。ただ、明らかに、人生の一般的な側面の一つを反映しています。赤ん坊として出発し、「学生」になり、学業を「卒業」して社会に入り「大人」になり、「仕事を得る」。そこで進歩は終わるかのように見えます。会社勤めのあとは退職し、手をこまねいて死を待つだけ、と。
これが、受け入れるべき人生の計画だとは信じたくありませんが、私の目につく範囲では、若者たちは何の疑問もなく、この考え方を受け入れているようです。彼らにとっての重大な問題とは、「人生で何をなすべきか」とか「地球上で、いかにして最良の時を過ごすか」ということではなく、「どの学校に入るようにしたらよいか」あるいは「大人になったら何になりたいか」といったことです。この考え方は単純な、ただ一つの回答を求めています。「世の中とはそんなものだ」と、彼らは考えています。しかし私はこう考えたいのです。学校や仕事に捕われる時間を少なくし、誰もが同じ道路地図をたどりながら、皆と同じように融通のきかない行進をする時間が減らせるような社会を、築き上げることができるのではないかと。これを実現できるかもしれないアイデアがいくつかあります。残り半分になりましたが、この、版画製作プロジェクトについての冊子の中で少し視点を広げて、意見を交換できるかと思います。
今夜は、ワープロをたたきながら少し本題を離れてしまったようです。今度の展示会までにこの原稿を書き上げることになっていました。準備は整いました。案内状も送りました。新たな 100万円が手を離れました。さて、どうなることでしょう。成功するでしょうか? 無一文になるでしょうか(再び)? 英語を教える仕事に戻らなくてはならないでしょうか? まったく、サスペンスですね。(このスリルを求めて、カナダで「気楽なサラリーマン」をあきらめたことを思い出します。)
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