デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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ペッタン!

今から数日のうちに(7月1日)日本に来て7年目の記念日になります。7年前に成田空港についた時は、日本に滞在できる公式の許可はもっていませんでした。カナダのバンクーバーにいたときに『文化査証』(ビザ)を日本領事館に申請しましたが、拒否されました。木版画を学びたいという思いが強かったので、ビザなしで日本に来ました。三千代は全く日本に戻りたくはありませんでしたが、彼女には私がバンクーバーでのサラリーマン生活がだんだんいやになっているということがわかっていましたので、私達は、家具等全部を倉庫にあずけてバンクーバーを離れました。私は富実を背おい、三千代は衣服の入ったサックを背おい日実の手をひいて飛行機に乗りました。日本滞在許可が得られるかどうか、どんな生活が待ってるいるか、どこに住むのか、どうやって生活していくかわかりませんでしたが、とにかく日本に来ました。

成田で入国管理管に何と言ったらいいかわかりませんでした。3ヶ月の観光ビザが得られて又3ヶ月延長できることはわかっていましたが、観光ビザでは働くことができなく、家族を養っていくことはできません。何らかの学生ビザが得られるといいと思っていました。そうすると一週間に何時間か働くことがでくます。入国管理管が三千代と子供達を見ていました。  「こちらはあなたの家族ですか。彼女は日本人ですか」と彼は聞きました。  「はい。はい、そうです」私が答えました。  「じゃ、配偶者ビザを申請しては、いかがですか。そのビザでどこへでも住めるし、どこででも学べるし、どんな仕事でもできますよ。制限はありませんよ」と彼が勧めてくれました。

私は信じられませんでした。そんなことは聞いたことがありませんでした。カナダの日本領事館では、文化査証を申請したり、待ったり、許可がおりなかったりと6ヶ月も費やしたのですが、このことについては一言も言われませんでした。これは私の願いにたいしての答でした。その日は、観光ビザで日本に入国しました。2ヶ月後には、私達は本当に家族だということを証明して配偶者ビザを手に入れました。最初は、6ヶ月毎に更新で、その後は一年間(2回)、それから3年間有効になりました。更新は何ら問題なくできました。手続きは簡単で、早く、とても友好的でした。しかし私は入国管理局にいくたびに刀が頭の上につるされているような気がしました。もし今回だめだったらどうしょう... 私の仕事はどうなるでしょう... 家族は? 私の人生は? 私の3年のビザが切れた昨秋、ビザの更新をしました。当時、他の申請もしてみました。それにはいろいろな書類をそろえる必要がありました。履歴書、戸籍と婚姻証明、住民票、数年前にさかのぼって納税証明(国、都、市)雇用証明、保証人についての書類(雇用、納税、及び家族について)。今年の4月、7ヶ月待って私の要求は認められました。大手町の入国管理局に行って、パスポートに永住許可の印をもらいました。

違う気持がするだろうか? そうですね。それは、そうでもあるし、そうでもありません。もちろん私は永住許可がとてもうれしく、安心感があります。これで3年毎に滞在許可をもらいにいく必要はありません。それは又、この社会にとって有益な何かをしているということを公的に認められるということはうれしいことです。しかし一方ではそんなに違いが感じられません。最初日本に一歩ふみ入れた日から近親感を持ってきました。これは大きな疑問です。いろんな状況を考えると私はこの国で快適なはずはないのですが... 大きな言葉の問題... 私の日本語はゆっくりと上達していますが、私が本当に言いたいことのほんの一部分しか伝えることができません。カナダではまったく言葉の問題はありませんでした。ここでは文盲のようで...おもしろい本屋さんの前を通りかかっても、発達のおくれた子供のようでイライラしてさけび出したくなります。カナダでは、本屋に住んでいたようなものです。ここでは、私の生活環境は、狭く快適ではありません。ふとんを敷く細長いスペースをつくる為に毎晩彫りによる木のくずをかたずけなくてはなりません。カナダでは、もちろん広い住空間をエンジョイできます。カナダの友達が私のように住まなければならなかったらこの時までには悲鳴をあげて逃げ帰ったでしょう。どうして私には快適なのでしょう。

そうですね。もちろん、そのいい部分は羽村という地域社会にあります。世界中のいろんな社会を知っていますが、ここほど個人の権利と社会にたいしての責任のバランスのとれている所を私は知りません。ケネディの有名な言葉があります... 『国があなたの為に何をしてくれるかと考えるのではなく、あなたが国の為に何ができるか考えて下さい』。これはここでは、実際に真に見られ、私自身この地域社会の為に何か出来る立場にあることをうれしく思います。

もう一つの理由は、娘たちにあります。彼女達は 100%この社会にとけこみ、学校、たくさんの友達、いろんな活動を楽しんでいます。成長するのにこれよりいい生活環境は世界のどこにもないように思います。

時として学校の行事、PTA、ドッジボール大会、ピアノ教室に時間がとられることで文句を言いたくなりますが、地域社会の生活として重要だからやらなくてはと思っています。

しかしもちろん、第一の理由は、私の仕事にあります。毎日、日本のタタミに座って、日本の伝統的道具を用い、日本の版木に彫り、日本のデザインを作っています(何世紀も前の日本の歌人に基づいた)。それから日本の顔料を用いて、伝統的な和紙に摺っています。仕事と住む所がよく合っています。他のどこに私の働ける場所があるというのでしょう。

私は日本人になりつつあるのでしょうか。そのことは、わかりません。私はイギリスで生まれましたが、5才の時に離れましたし、イギリス人だとは感じません。私はカナダで育ちました。しだいにカナダの社会にたいしてなじみがなくなってきて、なぜかカナダとの結びつきがあまり感じられません。私の国籍が何なのかわからなくなってきました。しかし疑いのないことがあります。私はしばしば『あなたの国はどこですか』ときかれます。どれくらいになるでしょうか、私の答えは、いつも同じでしたが、今ではパスポートに押された新しいスタンプによって、それが公的になりました。私の国は...日本です。

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