(前回からの続き)
それはもう一つの興味深いコンタクトをももたらしました。それは八王子在住の関健二氏からの電話で、彼は木版画摺り師だと自己紹介されました。彼は外人の浮世絵版画家という記事を読んでびっくりして、どうなっているんだろうということで訪ねてくださいました。関さんは、20世紀のデザインのものの仕事を主にされており、現代の有名な版画家の摺りの仕事をされています。彼との出会いはとても興味深いものでした。昔は、弟子は他の人の仕事を見るチャンスはなく、単に親方のやり方に従ったものでした。良きにつけ悪しきにつけ私にはそのような束縛はありません。(だからそれぞれの職人さんのプライバシーを守って、Aさんはこうしたけど、Bさんはこうだったなどと言わないようにしなければいけません) 一つ、関さんと、私の主なガイドである松崎さんに共通していることは、彼らがオープンで、進んで私を取けてくださろうとすることです。
この時には私は第 3番目の版画にとりくんでいました。私は東洋文庫を又訪ね、各月の彫りの版下を作るのに用いる全シリーズのカラーのネガを注文しました。私はビジネスのことについて(ちょっと遅くなりましたが)も彼らと相談しましたが、彼らの原画を用いることには何ら異存はなく、そのかわりに出来上がった版画を彼らのコレクション用に送ることを求められました。
大きなチャンスが 6月半ばにやってきました。それは以前の私のちょっとした宣伝用のチラシに答えて時事画報通信社の橋本氏がインタビューの為に訪ねて下さったことです。最初、彼は礼儀正しく、控えめでしたが、話の途中で、彼の質問に答えて、私が作った小さなノートを彼に見せました。これには、歌の入った春章の版画の小さなコピー、可能な配色、等のメモ、それと、平成10年12月までの各版画の予想完成月日が書かれていました。彼はこれらを全部見ていました。そして座り直して、しばらく何も言わないで私を見つめていました...それから「本当にやる気なんですね」... 私の返事は真実味があったのでしょうか、彼はとても熱心になってきました。それからの午後は、あらしのような写真撮影や質問、そして約一ヶ月後には私の仕事についてのすばらしい記事と写真の載った雑誌『フォト』が郵送されてきました。明らかに読者の方々もよく書かれた記事だと思われたのでしょう。次の数ヶ月の間にたくさんのお電話をいただき、 8人の方々が版画シリーズの収集家になってくださいました。もちろんこれはすばらしい助けになりました。他の人々も私のしていることに興味を持ってくださいました。まもなくこれらの新しい収集家の方々から感謝やはげましのお手紙やハガキをいただくことになりました。やっと、本当に始まりました。
その年の夏は、三千代の両親が私達と一緒に住むようになったので、東京で過ごしました。 7月〜 8月の間、英語クラスは休みで、私はひたすら版画を作りました。 4番目...5番目...まだ版画製作で生活してはいけませんでしたがそれは時間の問題のように思えました。もし 9月に又英語クラスが始まった時に、英語クラスをやめてフルタイムで版画製作ができるようになるまでにはさらに 2年間もかかるとわかっていたとしたら、私は泣き出してしまっていたにちがいありません。
... 続く ...
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