「自然の中に心を遊ばせて」 : 第十二章 : 春の海 : 抜粋
今日は海との「約束した時間」よりも早く到着した。この浜辺に来るには、とてもたくさんの電車やバスを乗り換えなければならないので、効率良く乗り継ぐなど不可能に近く、またそうしようとも思っていない。到着したい時間を決めて、その五時間前に家を出るだけだ。まるで緻密に計算したような結果になることもあれば、不運にも接続が悪く、たっぷり五時間かかってしまうこともある。だが今日は、旅の天使が味方になってくれたらしく、どの乗り継ぎ駅でも二分と待つことがなく、二回は快速に乗れた。「玄関からテント」まで三時間とかからない新記録だ。初めて昼前に到着した! この「たなぼた」時間をどう使おうか? 答えは簡単……、何もしないことさ!
最後の三十分くらいはバスの中で、窓から海を眺めると波がとても静かだ。たいした風もなく、岸に向かって巻き上がるように寄せる波は見えない。これはいい。嵐のような天気は経験したのだから、それと対照的に静かな海を体験するのは願ってもないチャンスだ。
やっと浜辺に着くと、完璧に「無風状態」というのではなく、柔らかな海風が吹いている。だが海自体は、今まで見た状態と比較すると非常に穏やかだ。砂の上を滑るように寄せる波のサラサラという音がなければ、海岸にいる感じはしないと思えるほど静かだ!
入り江の北端に通じる小道近くにある岩の上にリュックを下ろし、辺りを見回す。まず目についたのは、潮が遠くに引いていることだ。今朝家で潮見表を点検したときには、昼直前に満潮になって、今日の干潮は夜遅くなるまで来ないということだったのに、おかしいなあ。今頃は、最も潮が満ちているはずなのだが、今まで見たことがないほど遠くに引いている。日付を間違えて表を見たのだろうか。ま、しょうがない、時間の経過と共にどんな風に満ちてくるのか観察してみよう。
これほど潮が引いていると、今まで見たことのない岩がたくさん剥き出しになっている。岸辺からずっと離れた沖だと思っていた辺りにも、岩がたくさん頭を出している。今までこの入り江に船が近寄ることがなかった訳がこれで判明する。実際とても危険な場所だから、釣り船はいつもここを避けて遥か沖の方で行ったり来たりしているのだ。今回のキャンプはきっと面白くなるぞ。水面下から現れた岩が作る「できたての浅池」が探検できるのだから。
入り江を見渡すと、浜辺全体の形が前回来たときと変わっているのに驚く。南端にある岬に向かって三日月形をしていることに変わりはない。だが、以前は崖のすぐ下から水に向かうなだらかな斜面が端から端まできれいな砂で覆われていたのに、現在は砂利や岩のある場所が大きく広がり、海に向かってかなり急な斜面を作っている。一体何が起きたのだろうか? どこかの建設会社が来て砂を根こそぎ盗んだとは思えないので、きっと冬の嵐のせいだろう。これが大きく変わったことだ。初めてここへやってきたときに腰を降ろしたり泳いだりした場所は、すっかり洗い流されてしまった。 これは、季節的に起きる変化なのだろうか? 定期的に起きる変化なのだろうか? 一年の間に少しずつ積もった砂が、冬になると波に洗い流されてしまうのだろうか。だが考えれば考えるほど、そんなことはないと思えてくる。類を見ないほどの嵐がこの惨状を作り出したとするのなら、あと数か月で来る夏までに、どうやって普通の状態まで修復するのだろうか。今僕は、「普通の状態」とか「修復」などと言ったが、これはかなり自分本位の見方をしているからだ。きっとこれが自然な状態で、天気の変化に応じて浜の砂は寄せたり流れ去ったりしているのだろう。今まで親しんできた美しい浜辺が再生するには、十年くらい要するのかも知れない。しょうがない、テントを張って昼ご飯を食べ、その後に探検でもしたら、この「新しい浜辺」にはたくさんの発見があるかも知れないぞ。
サンドイッチの半分を取り出し、大きなマグカップ一杯分のコーヒーを携帯コンロで沸かすと、入り江の北端に向かう。そこにはごちゃごちゃした岩が囲むように池ができている。大きな岩の上によじ登って、座って広い海が見渡せる場所を探す。なんていい天気なんだろう! 足を海の方に下げて岩の縁に腰を下ろし、開放された空間を満喫しながらゆっくりと昼食を食べ始める。前回来たときには、岩で囲まれた丸い「池」で泳いだのだが、今その場所は水面より高くなっていて水がない。でも大丈夫、午後になって泳ぎたくなったら、もっと低い位置に似たような場所がたくさんできているのだから。水の流れによって、岩がどのように浸食されるのかは見当がつかないが、丸くなっている部分は、回転する水の流れによって削られたと見るのが妥当なところだろう。
近くにそんな池が一つあり、中央は深さが二メートルくらいありそうだ。隙間が二か所ほどあって、そこから押し寄せる海水が入っては出ていく。もしも目を閉じてこの水の音を聞いていたら、深くゆったりとした音が「呼吸」のように聞こえるだろう。十から十五秒くらいの間隔で岩の裂け目から水が入り込み、ちょっと休止状態となった後、逆の流れとなって最初はゆっくりと、次に隆起して放水、水位が安定すると流れが留まる。ちょっとの間、音がなくなり、やがて次の波がゆったりと寄せてくると、再び池の中に水が侵出してくる。このことが繰り返され、そしてまた繰り返される……。まるで催眠術にかけられているみたいだ。この岩の上に横になれるくらい滑らかな面があったら、一分としないうちに眠ってしまうだろう! 海に催眠術をかけられてしまうのだ。「眠くなる……眠くなる……あなたは私の言う通りに……」
だめだよ! まだだめだよ……。僕はここに来たばかりで、まだ昼寝の時間じゃないよ! 水面をじっと見つめて、潮の動きがどうなっているのかちょっと困惑する。食事をしている間に、潮は更に引いているようだ。僕が見た潮汐表によれば、今までにこの変化は済んでいるはずで、これ以上進行しないはずなのだが。干満の表は正しくて、すでに満潮は過ぎているのだろうか? 何度もここへ来ているが、こんなに潮が引いたのは見たことがない。これは、僕が潮の干満についてきちんと理解していないためだということを認めないわけにはいかない。春特有の潮の流れというのがあることは漠然と知っていたが、それは大きく満ちると思っていた。だが僕の思い違いで、春は大きく潮が引くものなのかも知れない。とにかくこれが今、僕の見ている現状だ。ま、そのうち分かることだろう。予定表によれば夜の始まり頃が干潮となるはず、どうなるか観察するとしよう…。
朝食はちょっとつまらない。食料袋の残りから食事らしきものを用意する材料は見つかったものの、いつもあるグラノーラやミューズリーの「割当」がないと、きちんと食べたような気持がしないのだ。でも、大振りのマグカップ一杯のコーヒーが憂鬱を振り払ってくれる。海岸にある大きな岩の上に座って、日の出を待ちながらゆっくり啜(すす)る。
昇ってくる太陽は真っ赤だ。いつも驚くのだが、ひとたび水平線の上に出てしまうと、その後の動きはとても早い。もやが濃く立ちこめているので、赤いボールを直視しても危険がないほどだ。少なくとも日の出直後の五分くらいは問題ない。朝日が海面でキラキラ反射するのを見ていると、ポッポと音を立ててその上を横切っていく釣り船が、逆光のために影となって見える。どこかで見たことのある場面だ。まるで同じ場面を絵にした版画が家にある! 吉田博という版画家が大正時代の後期に瀬戸内海を旅しながらたくさんのスケッチを残しているのだが、逆光を浴びる釣り船は彼が追求する主題材の一つだった。何年も前に、彼もこうして浜辺に座って版画制作について考えていたはず。そんな彼のことをまるで同じ状況の中で思い浮かべるなんて、妙な気持だ!
今こうして見ている、逆光を浴びて海に浮かぶ釣り船を版画にしたら、きっと魅力的な作品になるだろう。でも、彼の作風をそのまま真似るのは感心しない。ここには他にもたくさん魅力的な場面があるのだから、僕独自の考えで制作しなくては。でも、こんなことがあったらどうだろう。次の世紀になった頃、ある若い版画家がここにやってきて版画にする絵の構想を練るとする。そして、「う〜む、これはいい場面だ。ああ、でもだめだ。平成時代にデービッド・ブルという版画家が『自然の中に…』シリーズで作った有名な作品が、これによく似ているから……」なんてね。