--- スタート ページ ---

「自然の中に心を遊ばせて」 : 第九章 : 冬の海 : 抜粋

今回のキャンプ行きには、格好の機会がつかめずにいる。冬になると、展示会の準備や宣伝活動が始まるので、いい天気の続くキャンプ日和がやってきても、いつも逃れられない仕事があるのだ。でもある日、ふと天気に関する考え方が間違っているのではないかと思った。どうしていつも好天を待っているのだろうか。計画している十二回全部にいい天気を選んでいたら、それぞれの場所についての正確な描写も興味をそそるような説明もできないことになるだろう。太陽は、いつも穏やかな海上から顔を出すわけではないし、川がいつもさざ波を立ててゆったり谷間を流れるわけでもない。キャンプ地がどのような場所かを本当に把握したいのなら、今まで経験してきた小雨やそよ風でなく、かなり悪天候であっても躊躇すべきでない。山行きにしても、雲一つない澄んだ日の翌日に大雪が降る、などということがあれば最高だろう。そして海辺なら、大きな波が岩にぶち当たるような、荒れ狂う冬の嵐なんてどうだろうか。そんなわけで、僕は新聞の天気予報欄は今までと違う視点 — 完璧でなく、何か「特徴」のある天気 — で見始めた。

それでもなお、同じ問題に突き当たった。もってこいの天気になると、いつも手の離せない仕事があるのだ。一月の半ばに雪のたくさん降る日があったが、ちょうど展示会の直前だったので、とても抜け出してキャンプに行くことなどできなかった。そうこうするうちに、日々が過ぎ幾週間かが流れて行った。二月の半ばには、なんとか川辺に行ったが、天気は完全に協力を拒んでいた。来る日も来る日も、日本の至る所に大雪が降ったり嵐が来たりしているのに、関東だけは例外だった。冬の最中というのに水不足が懸念されるほどで、この地域にはほとんど降水量がなかった。だが、チャンスは今朝やってきた。ラジオを聞いていると、アナウンサーが「神奈川と千葉方面は強風と大波に注意」と言っているのだ。しかも、今日は雨で明日は快晴と言う。これ以上気持ちをそそられることはないだろう。朝食を済ますと、持っていく食料に追加するためのマフィンを焼き、荷物を詰めて出発した。

 

……夜になると雨が舞い戻ってくる。海岸全体は強風に煽られ、雨脚はほぼ真横から叩き付ける。僕が見たかった天気は、正にこれだ! 次から次へと、壮大なうねりが絶え間なく岩にぶち当たり、飛距離を伸ばした飛沫は優に砂浜のテントに達する。フライは海水のシャワーを浴び続ける。僕はテントの中で縮こまって夕飯を食べる。中に強風が入り込まないよう、入り口はきっちり閉めて。だが、暖を求めて寝袋の中に潜り込む前に、夜の最終散歩をしようと外へ出る。風に向かって暗い海岸を前のめりで必死に歩く行為に、「散歩」などという言葉を使っても許されるのなら、だが。波は今まで見たこともないほど高く、砂浜の奥まで打ち寄せてくる。だから、直立にそびえる崖ぎりぎりの場所を通らなくてはならない。

入り江の半ばまで進むと、風雨にさらされた大岩の面に小さな窪みを見つける。そこに寄り添って、僕に向かって続けざまに打ち付ける大波を眺める。遠方を眺めると、この入り江で今まで一度も見たことのない光景を目にする。大きな貨物船が、随分とこちらの方に近寄っているのだ。東京湾を定期的に往復する船舶の航路は、かなり房総半島寄りに位置するのだが……。船体のほとんどは黒っぽくてよく見えないが、荷の揚げ降ろし用クレーンや上部構造のあちこちに点灯している照明で、大まかな形が分かる。エンジンの重厚な音が、はっきり伝わってくる。ちょっと前から聞こえていたはずなのだが、嵐の音にかき消されて聞き分けられずにいたらしい。その船は、北からの追い風を受けてかなりのスピードで移動している。僕のすぐ前を通過して南下し、外海に出る気配だ。だが、船は近すぎる。どれほど陸に近いか、気付いているのだろうか?

次の一瞬、僕は愕然とする。波が荒れているため、船には水面下にある先ほどの大岩がまるで見えず、真っすぐそこに向かっているのだ。大事故を目の当たりにするのだろうか。この巨大な貨物船はゴツゴツした岩にぶつかって座礁し、砕けてしまうのだろうか。僕は特等席で見物することになるが、とてつもない大惨事になるし、僕の美しい入り江がだめになってしまうじゃないか。

 

波をじゃまする岩が少ないこの辺りは、どの波も砂浜まで砕けずに転がるように寄せてきて、滑らかな砂に薄い海水の膜を広げる。ここは去年の夏に真っ裸で寝そべっていた場所。今日はもちろん服を着ているが、同じ場所にしゃがんで水が滑り込んでは去っていくのを見つめる。

かなりたくさんの音がする。ほとんどは前方で砕ける波の音だが、この入り江の境界を作る大きな岩のあるちょっと離れた両端では今もその岩に波がぶつかる音がする。そして、それらの音全部が背後にある崖の面に反射して出る音も加わる。今僕が座っている場所は丁度入り江の中央に位置するので、この浜辺全体の音が集まる「焦点」になるらしい。不快なほどうるさいという訳ではないが、もしも誰かが僕の隣にいたら、声を聞き取るのに大声を出さなくては聞こえないだろう。

うるさくても、のんびりできない場所ではない。繰り返し繰り返し寄せて砂浜の上を滑っている波は催眠効果があり、去年そうしたように、座ってぼんやりと動く海を見つめる。夜が近づくにつれ、光は薄れてくる。ちっとも寒くない。暖かいカジュアルシャツとジャンバー、その上に上着を羽織るという三重構造だから、強い風が吹いても快適な状態を保っている。

海上を見渡すと、大潮のときにだけ姿を現す大岩がくっきり海面に出ていて、波がぶつかる度に、滝のような泡がその上に飛び散る。僕の真上の空には、羽田航空から飛び立ったばかりの飛行機が刻々と高度を上げながら大海に向かって飛んでいく。空は暗いのだが、飛行機はとても高い位置にあるので太陽の光を受けて輝いている。乗っている人たちは、暗い飛行場から飛び立って光の中に上っていく体験をしているのだろう。

夕方の醸し出す音と光景と空気を味わいながら、どれほど座っていたことだろう。テントに戻ろうと立ち上がったときには両足がしびれてしまい、正常に戻るまでの数分間、よたよたしながら歩く。暗くてどこを歩いているのか分からない。唯一頼りになるのは、波が寄せる度に砂浜に広がる白い泡だけ。ここで面白い現象を見る。波が寄せると泡がぼんやりと白く光るのだが、水が砂に吸い込まれて泡が消えると真っ暗になる。まるで誰かが、砂に当たっている照明の調光器で遊んでいるかのようだ。光り……消え……光り……消え……ずうっと家まで続く。

 

頭のすぐ上を吹き抜ける風の、ヒューという音が聞こえる。立ち上がれば、僕に食いつくかのような強風をまともに受ける。そんな気にはなれないので、岩にもたれかかる姿勢に戻ってとりとめのない思いにふける。この場所から、たくさんの岩が海水の中に浸かっているのが見え、そこへだんだん潮が満ちてくる。その岩は、大雑把ではあるが岸から垂直の方向に層をなして連なっているので、海岸の先にいくつもの細長い池のようなものができている。海水は一つの池から溢れて次へ流れたり、池の間を不規則に出たり入ったりしている。あるときは左側の池の水位が高くなり、次の池へ滝のように流れ込む。そしてすぐ後には逆の状態となり、今度は反対方向の流れが起こる。岸に打ち寄せる波、キャンプファイヤーのチロチロ燃える炎、川のさざ波……。こういったものは、表面だけを見たら全く「退屈」な現象だが、実際は限りなく興味深い。僕の猫が窓辺で外の世界を見ているときの気持ちが、ちょっと分かるような気がする。車が通ったり人が通り過ぎる度に、頭を右左に振って見ている。どんな気持ちで見ているのだろうか。目の前に何か動くものがありさえすれば、猫は何時間も何時間も、座ってそれを追い続ける。そして僕は、この海岸で同じような時を過ごしている。水が左に流れ……右に流れ……。

僕がもたれ掛かっている岩は浜の砂と同じ薄茶色だが、これは偶然ではないように思う。この海岸を構成している砂の粒子が、これらの岩を源としていることは明らかで、それが風や水によって浸食されてできたものだ。岩には濃い色と薄い色の層が見え、全体がざらざらして砂のような感触なので、遥か昔に海か湖の底に溜まった物質で構成されている堆積岩だということが分かる。年を経るに連れ、地形は僕たちの認識を越えるスケールで変化したに違いない。時にはゆっくりと、そして時には突然乱暴に。大海の底に積もった柔らかな粒子の層は、やがて圧縮されて固い岩となるが、あるとき地表に押し上げられ、空気に曝されるようになったのだろう。

ザラザラした岩に手を当てて表面をこすると、粒が外れて地面に落ちる。今落ちた粒は、僕の手で外されるまで、どれほど長い間待っていたのだろうか。何百万年……。何百万年も、待って待って待ち続け……、ついに今日僕の手が触れてこぼれ落ちた。これを読んだ君は、きっと笑うだろう。でも、ここにちょっとしたドラマを感じるのだ。想像を絶するほどの時を経て、やっとここまで至ったものを、自分が壊したような気分なのだ。

僕の家の近くに神社があって、そこには曲がって皺が寄っているとても古い木が何本もある。そういった木は年月を経るうちに特別なオーラが備わっているので、誰も傷つけようなどとは思わないだろう。そんな古木が嵐で倒されてしまったら、僕たちは悲しく残念に思う。それなら、ここにある岩を削って悲しさを感じるのは、おかしなことだろうか。

教科書は、地質が形成されるためには気の遠くなるほどの長い年月が掛かると説明する。たいていは百万年単位で、どの数にもゼロがたくさん付いている。だが、百万年という長さはどうにも掌握できない。一年間は、今までそのサイクルを何回も経験してきているので容易に分かる。また十年という期間も、自身が百人一首の十年企画をした経験が基準になるので認識できる。では、百年はどうだろう。本当に分かるとは言わないが、頭の中で理解することはできる。僕個人の家族の経験を含めれば、それほど昔のことではないから。そして、千年にまで間隔を広げたとしても、なんとか掌握できるように思う。歴史の本をたくさん読んできたので、最近の数世紀を頭の中で大まかに思い描くことはできる。でも百万年とは! 一年一年が千回集まって千年となり、それをまた千回繰り返すと百万年になる。膨大すぎて、僕が認識できる範囲を越えている。