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「自然の中に心を遊ばせて」 : 第七章 : 冬の川 : 抜粋

やっとキャンプ地近くに着いて歩き出し、遥か下の方を流れる川を見ると、最初に目に入ってきた辺りの様子は秋とほとんど変わっていない。川は前と同じような緑色だし、水面にはたくさんの葉が落ちている。今日は凄く風が強いのだからそれも道理だろう。駅から歩き始める時には、風に向かって前のめりにしなくてはバランスが保てないほどだ。水辺のキャンプ地は一体どうなっているだろうか、ちょっと心配になる。漏斗状になった谷底なのでもっと吹き荒れているだろうか、それとも逆に穏やかで静かだろうか。やがて道を下りきったところで風を避ける森を抜けると、すぐにその答えが分かる。ここは風が強い! キャンプ地まで、いくつもの岩を渡って行く時には、よほど注意しないと危ないだろう。重い荷物を担いでいるから、ちょっと足を踏み外したら横殴りの風に煽られてすぐに川に落ちてしまう。

上流を見上げると、太陽が川の真上にあるために水面で反射する光が猛烈な強さとなり、岩壁はまるで見えず、木々や茂みは深い陰になっている。下流を見下ろすと、太陽を背後に受けるので岩壁は明るく光って見えるが、水面の反射はなく水は濃く見える。

僕の住む市街地では、昨日水っぽい雪が降ったが、今朝家を出る頃にはほとんど消えてなくなっていた。駅に向かって歩いていると、まったく陽の当たらない場所にはちらほらと雪が残っている。そして、昨日のうちに溶けて水たまりになった場所には氷が張っている。だが天気は快晴。今日は晴れて気温の低い日になるという予報だから、僕には持って来いだ。寒くて晴天は心地良いが、寒くてじめじめしていたらたまらない。前回、秋の海辺行きはちょっと時期が遅くなってしまったが、今回はぴったりのタイミングだ。積もるほどの雪は降ってないが、十分寒い。冬なのだから!

 

僕のキャンプ場所は、数ヶ月前に来た時と変わっていない。遠くから見ると、この浅瀬はかなり穏やかで、ガラガラと小石の上を転がる音を立てている。だが近くに寄ってすぐ縁に立つと、岩と流れが荒々しくぶつかる様子が見て取れる。数メートル先の流れの中にはふたつの岩があって、ひとつは水面上に出ているのだが、もう一方は水面のすぐ下にあり、その上を透明で澄んだ水が淀みなく流れている。その二つの岩の間を、水は勢い良く落ちて泡の滝を成している。

水はきれいに澄んだ緑なので、もの凄く心が惹かれて飛び込みたくなるほどだが、とてもじゃないが水泳は無理だろうと、今回のメニューから外ずしてある。数分くらいなら冷たい水の中に浸かっていられるだろうが、一旦水から上がったら、凍てつくような風が当たって体が引きちぎられる思いだろう。いずれにしろ、今日は出発前に近くのスポーツクラブでひと泳ぎしてきたのだから、ここでは参加者ではなく観客になるとしよう!

リュックを下ろしても、テントを張るのは後にする。間もなく、ここには陽が当たらなくなるだろうから、まだ日脚のある間に温もりを浴びておきたい。小さなレジャーシートを広げて僕のキャンプ場所の背後を囲む岩にもたれ掛かると、背に当たる表面はすべすべしている。こうして、この谷の静かな雰囲気に浸かり始める。目の前の流れは、砂利の上を転がるようにゴボゴボ音を立て続けている。ああ、戻ってきて良かった!

 

第一幕第一場
登場人物:鷹が二羽とカラスが二羽
場所:頭上
舞台下手から二羽の鷹が登場し、木の梢くらいの高さを、川の中に獲物を探しながら浮遊している。この鳥たちはもう見慣れている。日に何回も川の流れに沿って上ったり下ったりしている。時折、対岸にある枯れ木に止まり、彼らを眺めて座っている僕の方を見る。だが今日の台本はいつもとちょっと違う進行である。水流が直線になる部分の上端に深い渕があるのだが、彼らがその真上辺りを漂っているとき、付近にある木からカラスが二羽飛び出してきて、すぐに争いが始まる。鷹と変わらないほど大きなカラスが、そろって敵に向かってまっしぐらに飛ぶと、鷹の編隊飛行は崩れる。四羽の鳥は急降下をしたり襲いかかったりしながら、深い渕の上空を飛び交う。時折、二羽のカラスが一方の鷹を追うと、すぐにもう相棒の鷹がそれを遮る。

彼らは真剣に戦っているのだろうか、それとも戯れているのだろうか? 鷹とカラスがぶつかり合うようなことはないし、羽根が飛び散るようなこともなく、どの鳥がどの鳥を追っているのかはっきり分からない。数分ほどこんな状態が続いた後、全体が下流の方へ移動して流れの曲がる所まで行き、見えなくなってしまった。それにしても納得がいかない。カラスは生きた獲物を捕らず、もっぱら丘の上に広がる住宅地の辺りで残飯を漁っているだろうし、鷹は川にある生きた獲物を見つけている。双方の間にどんないがみ合いがあるというのだろう。それに、この谷でカラスを見るのは初めてだ。鷹の縄張りを荒らしに来たのだろうか。この先どのような成行きになるのか、観察することにしよう。

 

今ここで僕が確認できる星座は唯一つ、狩人のオリオン座だけだ。中央の三つの星が示すベルトが分かり易い。他にもいくつか知っているのだが、それは見つからない。まだ上っていないか、白く広がる都市の光にかき消されているかのどちらかだろう。

体の上には肌を刺すような冷たい空気が流れている。我慢ができなくなるまで、目の前に繰り広げられるショーを楽しむ。そして、しぶしぶテントのドアーに付いているファスナーを引き下げ、この小さな「部屋」の中に気持ちだけでも温もりを籠めるようにする。遂に一日が終わったようだ。もう一杯だけ、温かな飲み物をお腹に入れたら寝ることにしよう。

二月の夜が寒いことは、誰でも知っている。おまけに、深い谷間の底にある空気は町中よりもずっと冷たく、そして更に、ほんの数メートル先に氷のように冷たい川が流れていれば、さらに寒いことだろう。そう予想して、慎重に準備をしてきた。当然、暖かくて快適な服を着込んでいる。足には木綿のソックスの上にもう一足のぶ厚い毛糸のソックスを履き、脚にはタイツとズボン、体にはカジュアルシャツとバルキーではないが暖かく着心地の良いセーター。僕の寝袋は3シーズン用なので、その足の方を胸のファスナーを閉じたパーカーですっぽり包んでしまう。こうすると足の保温性がぐんと良くなる。それからエアーマットの空気をパンパンになるまで吹き入れて、体のどんな部分も地面に接しないくらいの厚さにする。最後に、換気のため、入り口のドアーにちょっぴりの隙間を作る。この作業が全部終わったら、寝袋に潜り込んで顔を囲む紐を絞る。ここまですれば寒さはほとんど気にならない。ぬくぬくと心地良い一晩が過ごせそうだ。

 

ちょっと場所が変わるだけで、ガラリと雰囲気が変わる。大きな岩の上に座り心地の良さそうな場所を見つけ、深い渕を見下ろせる辺りに腰を下ろす。テントの前は浅瀬になっているので水の流れが速く、いつも大きな音がしているが、ここは静かだ。太陽の位置はまだとても低いのだが、その温もりは直接肌に感じられる。1分と経たないうちにジャンパーの前を開くほど暖かくなり、熱が体の芯まで届いてゆく。やっと一日の始まりだ。

日が当たるとまるで違う。数時間前までは、時が先へ進まないかのようだったのに、今は流れるような滑らかさで過ぎてゆく。人間なんてこんな簡単な事で幸せを感じるものなのだろうか? 一握りの干しぶどうを入れたオートミールと風を避ける日だまりの席。今はこの上ない気分、これ以上他に何が要るというのだろう。素晴らしい朝だ! ここに数時間座っていると、そう感じるのは僕だけではないらしいことに気付く。今回この谷へやってきて、まだほとんど生き物を見かけていなかったのだが、この日だまりには真冬でも活動している生き物がいる。小さな赤い蜘蛛が僕のノートの上を横切っているし、太った蠅が近くの枝に止まって顔や羽を繕っている。あっ、二羽の鴨だ! 真下の渕に向かって飛んできて、滑るように完璧な着水をする。僕が「おはよう、お二人さん。君たちは長い夜をどう過ごしたんだい?」と声を掛けると、二羽は急いで遠い端へ泳いで行ってしまう。真上の空では、昨日のドラマの再上演が始まっている。今度は、二羽のカラスが一羽の鷹と空中戦を展開している。鷹がカラスを追跡しているかと思うと、次の瞬間には二羽のカラスが鷹を川下の方向に追ってゆく。