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「自然の中に心を遊ばせて」 : 第五章 : 秋の森 : 抜粋

数週間前に森へ出かけた時には、家からキャンプ地まで歩いてゆく行程をじっくり楽しんだのだが、今回は自宅から80キロも離れた場所である。とてもじゃないが、同じ方法を取ることはできない!目的地までは五本の電車とバスを乗り継いで3時間かかるので、早朝に家を出て駅に向い、まず最初の切符を購入する。

駅まで歩きながら、このキャンプ行きを先延ばしにし過ぎたのじゃないかと心配になる。あたりの木々はもうほとんど葉を落としているし、今が秋だとは誰も思わないだろう。現在僕の心の中では、二つの考えが交錯している。そもそもこの企画では、三つの異なる「秘密の場所」ではっきりした四季の様子を書く計画。それなのに、「秋の海」には出遅れてしまったらしいということ。もう一つは、海辺にどの程度秋らしさがやってくるのか。木々に囲まれた森に比べたら、季節による違いなどあまり観察できないのではなかろうか。もちろん、夏は暑く冬は寒いだろう。でも、浜辺を見下ろす桜も楓(かえで)もないのだから、季節を感じさせる物などほとんどないだろう。他の二つの場所ならば、多様な緑や秋の紅葉、そしてむき出しになった幹がはっきりと四季を伝えてくれるのに、海辺にはそんな物が何もない。だが、葉の落ち尽くした木々を眺めつつ駅に向かって歩きながら、僕はこう考える。だからと言ってどうすることもできないさ、海辺にだって秋を知らせる「何か」がきっとあるだろう... とにかく行ってみよう。

そして4時間後、微かながら期待を捨てずにいて正解だった。五本目の電車を降りて海辺まで運行するバスが来る停留所に行き、待っている間ふと辺りを見回すと、なんと周囲を囲む丘の木々は黄金色に染まっているではないか!しかも風は柔らかく、そっと頬を撫でるようだ。これは驚いた!

厚手のジャンパーを脱いでリュックの上に括り付ける。季節の変化について考える時に、見落としていることがあった。近くの川や森の景色に気を取られ過ぎて、さして離れていなくても気候の違いはかなりあることを忘れていたのだ。目的の海岸は自宅と同じ地域に分類されているが、海辺だから(当然)他の場所とはまるで異なる地理的な影響を受けるはず。伊豆や湘南や三浦海岸に行ったことのある東京の人なら、この辺りが都心よりもずっと温暖な気候であることは誰もが証言することだろう。僕は時を遡(さかのぼ)って、まだ秋の真っただ中にいる!

 

30分ほどバスに揺られた後、入り江まで畑の中の小道をぶらぶら歩く。前回ここへ来た時には、一面がスイカで覆いつくされ太陽の光を浴びていたが、今は何が育っているのだろう。目の前にした答えは... 大根!どの方向も視界の届く限り大根の畝(うね)また畝で覆いつくされている。まだ植えられて間もないような小さな苗のところがあれば、白い頭を土の上までにょっきりもたげるほど大きく育っているところもある。畑のあちこちには竹を組んで作った棚が立っていて、そこに干された大根はしなびて黄色くなっている。きっと近郊に住む何百万もの人たちが消費する大根の大部分を、この辺りで供給しているのだろう!

目的の海辺は、とても清潔で新鮮な感じがする。砂は太陽を反射して明るく輝き、そよ風が爽やかに流れる。今朝の天気予報では、続く24時間は天候が著しく変化するのではっきりと予想できないとのことだったが、現在のところは白い雲がちらほら浮かんでいるだけで気分を腐らせるような兆候はない。海原に目をやると、時折小さな波を風が押し上げて白いしぶきが上がるが、沖にある釣り船は大波のうねりにも上下動せず水面で安定している。今は引き潮で、この砂浜に転がるように打ち寄せる波はない。きっと今夜眠りにつくまではこの状態が続き、寝床の中で潮騒を聞くことになるだろう。とにかく僕は、今こうして広大な空間に囲まれ、得も言われぬ開放感を味わっている。

この海岸の北端には、夏にテントを張った時と変わらず筋っぽく固い草が生えている。今夜もここでキャンプをすることになるだろう。リュックを下ろして、テントを張るために簡単な整地をしながら、こんなことを思う。家を出たばかりの頃「桜も楓もない」と言ったが、季節を感じる植物に関してかなり視野が狭かった。夏には気付かなかったのだが、風除けをしてくれるかのように、海と反対にある崖側からこの草地の方に向かって伸びる背の高い草や茂みの中にススキがあるではないか。海岸には季節を感じさせる物などないなんて、言ったかな? 風にそよいで羽のようにふわふわしたススキを背景に、テントの青がなんとも鮮やかに映えている。季節は一目瞭然、海辺の秋だ!

 

カップの中が空になった、そろそろ僕の領分を散策するとしよう。まだ引き潮なので、砂浜は幅が広く表面は平らで足跡一つない。そこを歩き始めると真後ろから風が強く吹き付け、僕を後押ししているかのようだ。右側を囲む崖の下には、草と茂みが端から端まで続き、植物全体が風の吹く方向にかなり急な角度で曲がっている。きっと崖の位置や近くの地形の影響を受けて、いつも決まった方向に決まった強さの風が吹いているからなのだろう。

目を下ろし、波に打ち上げられた海藻の間に何か面白い物がないかとあちこちを見回すと、海岸沿いに奇妙な物体が散らばっている。どれも丸くて平べったいドームのような形をしていて、大きさは3〜10センチくらいとばらつきがある。一つひとつは、下にある砂がくっきり透けて見えるほど透明である。水際にあるのは、波が打ち寄せるとふわりと浮いて前後に移動する。

次第に、これはクラゲに違いない、そうでなければクラゲに似ている海の生き物だろう、と頭の中が整理されてくる。だが、足は見当たらず円盤状の部分のみ。そおっと一つを拾い上げるとゴムのような感触があり、ちょっと固めのゼリーみたいだ。臓器らしき物など、はっきりと特徴を示す何かはまるで見つからない。口も目もなければ、心臓や消化器もない。まるでゼリーの固まりだ。ところが砂を洗い落とそうと水中に沈めると、驚いた事に、まるで広げた傘のように見慣れたクラゲの形にふくらんでぷかりと浮かぶ。浅瀬でひょいとはねるようにふくれると生きているみたいだ。でも生きているのだろうか? まるで分からない。もう一度手で掬い上げると、生気のない円盤に逆戻り、生きてなんかない。だが、ほんとうはどうなんだろう...

もう一つ気になるのは、食べられるかどうかだ。試しに小さめのを二つくらい今夜のスープに入れてみたら... いやいや僕は意気地なしだから、そんなことはできない。彼らのことはそっとしておき散歩を続けるとしよう。砂浜の南端にある崖は、夏と変わらず人を寄せ付けない雰囲気があるので、早々に向きを変えてテントのある方角に、今度は風に向かって屈(かが)むような姿勢で歩く。

 

沖合を眺めると、釣り船の姿はどこにもない。二十艘かそこらもあったのに、今は一艘も見当たらない。いつもこんな風に一緒に移動するのだろうか。漁業組合が漁をする時間を取り決めるのだろうか。いや、時間を決めるのはきっと魚の方だろう...

かすんでいるため、双眼鏡を通してもほとんど見えないのだが、貨物船は今も列をなして移動しているのだろう。低域超音波の唸るような音が絶えず耳に響いてくるから。だがこの音は、自宅周辺を通る車やトラックの騒音と違って、神経を耳に集中しなければほとんど聞こえないから、ほとんどじゃまにならない。時折、中の一艘が他の船よりも近くを航行したり、エンジンの音を大きくしたりするのか、そんな船の音ははっきりと聞こえてくるので、いつも遠くに貨物船があることを思い出す。

初めて動力船がここにやってきた時、日本の人たちはどんなに凄い衝撃を受けたことだろうか。その頃の浮世絵を見ると風変わりな船の形を強調して画いているように見えるが、外国船はその時の音響風景をも変化させたことだろう。それ以降、汽車・トラック・自動車と、新奇なものが続々と生活に入ってくる。内燃機関を使う動力が発明されるまで世の中はどんなに静かだったか、想像できないほどだ。だが考えてみれば、それほど理想的な状況ではなかったかも知れない。ビクトリア時代のロンドンについて書かれた本を読んだことがあるが、馬が交通手段だったので、町中がとてもうるさくて臭かったそうだ。一方江戸は、蹄鉄がなかったのでもっと静かだっただろうが、騒音源は山とあったことだろう。だから、ニ百年近く昔の都市が現在よりも遥かにうるさかったとも静かだったとも言えないだろうが、それでも、町中を離れれば静寂に包まれたはずだ。でも現代は、道路や空そして海からと、どこへ行ってもエンジン音から逃れられない。

 

食事が済んだら鍋を片付ける。それから、風を避ける近くの岩陰に双眼鏡やノートや鉛筆などの用具を持って腰を下ろすと、朝の太陽がたっぷり降り注ぐ。この位置から長い砂浜全体がまっすぐ見えるのだが、まだ朝靄(もや)が立ちこめているので反対の端にある黒っぽい崖はぼんやりとしか見えない。海はとても穏やかで強い波はないのだが、ちょっと大きめのうねりが岩にぶつかると、所々でしぶきが上がる。海岸の上空を高く飛ぶトンビが、崖の端から舞い上がるように姿を表す。後ろからもう一羽が続き... もう一羽... 1分ほど過ぎると計十二羽ほどが、それぞれ大きな輪を描くように飛翔している。同調して飛んでいる様子はなく、狩りに最適な早朝の時間帯なのだろう、どうやら崖の上あたりを狙っているようだ。

岩に頭を預けて近づいてくる数羽を観察する。十分近いので双眼鏡は必要ない。彼らは風に乗っているらしく羽ばたきをしない。きっと崖に沿って上昇気流のようなものが発生するので、いつまでもああして浮かんでいられるのだろう。風の流れにうまく乗ろうとする時、翼の先端をピクリとさせたり体や尾羽をちょっとねじったりするのだが、そんな動きさえも見て取れる。僕が突然に腕を動かすと、一番近くにいるトンビが反応を示す。僕を見つめている目が見えるくらい近い! まさか僕が獲物だなんて思ってないだろうが、あんまりたくさん飛んでいるので怖いくらいだ。でも、僕の体は彼らの口には大きすぎるはずだし、少なくても生きている間は抵抗できるだろう。それにしても、こんなにたくさんの鷹の目、じゃなくて、トンビの目がいつも上空で監視していたら、小動物たちは一体どうやって逃げ切るのだろうか。

 

太陽光をたっぷり浴びて水泳までしたけれど、今は夏ではないということを忘れてはいけない。どんよりした空は刻々と暗さを増し、風も強くなってきた。どうやら今回も涙雨で見送られることになりそうだ。前回と同じような状況になってきたので、さっさと持ち物をしまい明かりの残る間にテントを畳む。 最後にもう一度、数分の間だけ海の見納めをしたら出発の時。表通りに出ると、まもなくバスがやってくる。30分後に駅のホームで電車を待っていると、霧雨が降り出す。

今回も、ゆったりと過ごせてとても良いキャンプだったなあ。