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「自然の中に心を遊ばせて」 : 第五章 : 秋の森 : 抜粋

海辺にある私のキャンプ地へは、どうしても電車を利用しなくてはならない。川辺の場合もやはりそれが一番いい方法のようである。また、数ヶ月前にこの森へ来たときには自転車を利用した。こういった機械的な乗り物を使った移動手段はとても有効で時間の節約にもなるのだが、キャンプが目的の場合にはちょっとした支障をきたすことになる。電車であれ自転車であれ、リュックを背負った自分が乗り物を降りて数分も歩けば目的地に着いてしまい、移行があまりにも突然なのだ。体は静かで落ち着いた自然の中に置かれているのに、気分はまだそこからはるか離れた感覚の中にある。精神状態が環境に適応するまでには、しばらく時が必要となる。

そんなわけで、秋の森行きにはちょっと違う方法をとることにする。しっかりしたハイキングシューズを履いてリュックを背負い、ほぼ1時間かけて家からキャンプ地まで歩いてみる。最初の半分は住宅地だが、ひとたび多摩川を渡って対岸に行くと雰囲気はがらりと変化する。車の音はしだいに背後へと消えて、幹線を走るタイヤの摩擦音は風に揺れる枝の擦れ合う音へと変化してゆく。

風が強く、その勢いに押されて辺りの木はどれも大きく揺れ動いている。赤や黄色や茶色の葉が空中いっぱいに舞っている。一面に落ち葉のカーペットを敷きつめたようだ。きっと先日の台風のせいだろう、この時期にしては量が多く、地面にころがる倒木も枝もまだ生々しい。荒く裂き折れた枝の面は、まだ白っぽく瑞々しい色をしている。

森への入り口は、ちょっと急な登り坂だ。前回に較べるとリュックは幾分重い。少し食料を余分に入れたのと、夜になると気温が下がるだろうと厚手の服も加えたからだ。地面はたっぷりの落ち葉で覆われているものの、上を見上げればまだまだ木々はたっぷり葉の衣をまとっていて、紅葉が空の青さを背景にくっきりと浮き上がって見える。だが、この状態は長くは続かないだろう。というのは、昼をかなり過ぎるまで片付かない仕事に追われていたので、出足が遅れてしまったからだ。今日はのんびり過ごせる午後の時間が短くなるだろうから、着いたらすぐにテントを張らなくてはならない。とはいっても、明日の予報は晴れだし待ち構えている予定もなく、義務となる仕事は静かに座って森の雰囲気を堪能するのみである。

空気はひんやりしているが、茂っている木々が寒風を防いでくれるので、ここに来るまで町中を歩く時に必要だった厚手の服はまもなく不要になり、一旦立ち止まって厚いセーターを脱ぐ。それでも、急な坂の終わりにたどりつく頃には汗をかいている。こうして高度を稼いでしまえば、続く30分ほどは尾根に沿ってほぼ平坦な道が続き、やがてキャンプの予定地に着いてしまう。

こうして一歩一歩ゆっくりと自然に入って行くのが手順というもの。たとえそれが自転車であっても、車輪を使って移動してしまえばパラシュートで突然、目的地に落下するようなものである。何日もトレッキングを続ける人からみたら、1日しかキャンプせず、それもたった1時間でたどり着いてしまうような場所なんて、笑い草かもしれない。本格的なトレッキングをする人たちは、何週間も過ごす場所に着くまで、何日もかけて次第に環境に順応してゆくのだから。でも大切なのは、都会に住む者が森に入って行く時には、こうした気持ちの切り替えを大事にするという点ではないかと思う。

この観点から見ると、今日私が試みている方法はなかなかうまくいっている。土壌はしっかり目が詰まっているのに柔かさを保っている。尾根に沿って、一歩一歩しっかりと踏みしめて歩きながら、もう数分もすればこのハイキングが終わってしまうことをとても残念に思う。まだウォーミングアップすらしていないのだから!キャンプをする場所と幹線道路とを隔てる距離は約2キロメートルほどしかないので、あまりにもすぐに到達してしまい、何とも...

 

夕闇が近づくにつれ辺りの色が変化してきた。日中に森を歩いた時には、ほとんどの葉が赤やオレンジだったのに、夕暮れの柔らいだ光の中では、そういった色が背景のように遠ざかり黄色ばかりが目立つ。

まだ、急いでテントを張らなくてもいいだろう。手元が見えなくなったら性能のいいランプがあるし、温かな飲み物が体を満たしてくれる間、こうしてゆっくり座って緊張をほぐすのが心地よい。テントもなしに暮れてゆく森の中にいるという、ちょっとした興奮もなかなかいいものだ。薄いナイロンと細いポールだけでできたテントだから、きちんとした建物とは比べ物にならないが、それでも中に入れば安心するのが心理というもの。森でも、川辺でも、海辺であっても、テントがあれば「家」のように自分を守ってくれる空間があるような錯覚(錯覚なのだろうか)を起こす。

今夜は、そんな「保護」を少しの間だけ遠ざけてみたい。そもそも、自然の中にいる気分を味わうのが、 このキャンプの目的のひとつでもある。常時守られた環境の中に縮こまっていたら、自分を取り囲む自然を理解することなどできやしないだろう。今夜はテントを使わずに、地面の上に直接シートを敷いてその上で寝袋に包まって寝る方がいいかも知れない。こんなことを思い巡らせていると、カップの中は空になって気温は更に下がってくる。さあて...、実験は次の機会に預けることにしよう。作業を開始すれば数分でテントは立ち上がる。持ってきた物を中に並べれば、僕の暖かな「我が家」はできあがり。考えてみれば、リスだって小鳥だって夜用の隠れ家を準備するじゃないか、そうだよね。

 

今私の見ているこの光景は、これを読んでいる人のどれくらいに理解してもらえるのだろうか。私は、この地球上に生まれて半世紀以上を過ごし、月夜について書かれたものもたくさん読んできた。その度に分かったつもりで頷いていたのだが、こうして実際の光景を目の当たりにすると、ちっとも理解などしていなかったことに気付く。一度も自分の目で見た経験がなければ、 こうしたことは分かり得ないのではなかろうか。言葉は、読み手の経験と何らかの形で結びつく場合に意味を成すように思える。たとえば、川辺の話でテントの側をゴーゴー音をたてて流れ過ぎる水の様子を描写したとき、読者はかなり生き生きとその状況を思い描くことができたと思う。たいていの人は、川が流れる音を実際に近くで聞いた経験があるはずだから、私の説明がその音や光景を思い出させて、こちらが伝えようとするイメージを読みながら再構築できるからだ。

ところで、十三夜の月が出ている夜中の2時頃に、静寂に満たされた森の中でじっと座っていたことがありますか。そして、何メートルも離れた場所で細い小枝がはらりと落ちる音を聞いたことがありますか。足下を覆う落ち葉の一枚いち枚が月の光を反射して白く光っている、そんな小道を歩いたことがありますか。見渡す限り一面が明るく輝いているのに「暗い」、光はいたるところから差し込んでいるのにその源を知らせる影がない。あなたにこんな経験がまるでないとしたら、今私の見ている森の光景を「感じる」ことができるだろうか?

 

こんなことを考えながら、登り坂の尾根を歩いていると、前方から音が聞こえてきた。不規則な間隔で聞こえたり聞こえなくなったりする。上手の方にある茂みで何かが動いている。音を立てる物を踏まないように注意しながら、できるだけ静かに前進する。数分ほどすると、右手の方に動く物がありチラリと赤いものが目に入った。今日お目にかかるのはタヌキでも熊でもないようだ。それはかなり高齢と思われる男性で、鎌を手に作業をしている。彼の周りは木が少なめで他の場所よりも太陽の光が多く差し込んでいるため、似た種類の低木がたくさん生えている。その木の枝を切っているらしい。

こういった森の中で誰かに会った場合、町中とは違い声を掛けずに通り過ぎるのは不自然なので、立ち止まって彼に挨拶をする。すると、そこにあるのは榊という木で、その枝が町の花屋で売れるのだと説明してくれる。もうすでにかなり大きな束をたくさん作っていて、それを小道の脇に山積みにしている。愛想のいい人で、私がここで何をしているのかと聞くので説明すると、小道や動物などこの谷一帯のことについてよどみなく話し始める。いや、「かつての」と加えた方が正確だろう。なぜなら、彼の話は過去の様子なのだから。

ここで一番よく見かけた動物は野ウサギで、それを餌にするキツネもたくさんいたそうだ。こんな小道を歩けば、ウサギがピョンピョン跳ねて茂みの中に隠れていく様子が必ず目の前で見られたと言う。だが、今はもうウサギの糞を見かけることがまるでなくなったので、一匹もいないだろうと言う。このことは考えてもみなかった。彼の話を聞いて、ある場所にいる生き物を調べたければ、これが最も理にかなった方法だと思った。そう言えば、この森に来て動物の糞をまるで見ていない。ある程度大きさのある生き物なら存在を示すはっきりした印、それに気付かなかったとは!

 

午後の時間が経過して太陽は向かいの稜線に近づいている。ちょうど昨日ここへやってきた頃だから、そろそろキャンプを終える時かもしれない。でも、広場にいる間にちょっとしたアイデアが浮かぶ。昨夜の月はとにかくきれいだったから、もう一晩いた方がいいかも知れないと。完全な満月は過ぎてしまったが、まだほぼ真ん丸の形をしているはずだ。食料はまだあるし... そうだ、別の問題がある。キャンプをする時には、家に戻った頃を見計らって友人が電話をしてくることになっている。無事に帰宅しているかどうか確認するためだ。電話した時に私が応答しないと心配するだろう。予定通りに戻った方が良さそうだ。

とはいえ、まだ急ぐ事はない。間もなく陽が沈んで月が昇ってくるだろう。夜になったら道具をまとめて、月が昇ってくるのを静かに待っていればいい。木漏れる月明かりを頼りに歩けば、帰り道も楽しめるだろう。電話が掛かってくるまでには悠々と間に合うはずだ。

こんな案が浮かべばすぐに決定。とりあえず持ってきた道具をリュックに詰め始めるが、いつもとはちょっと違った方法にする。寒くなって温かな飲み物が欲しくなるといけないので、コンロを一番最後に入れる。片付いて空っぽになったテントの中にのんびりと座り、その後暗くなってからテントを畳んでリュックの上に縛り付ける。

テントを広げずに、こうして暗闇の中に座っているのは妙な気分だ。風はぴたりと止んで無風状態なので枯れ葉1枚落ちて来ず、鳥の鳴き声ひとつ聞こえない。飲み物を温めるコンロのシューという音だけがあり、それを消してしまうとかすかな青い火もなくなって森の中はまったくの静寂に戻る。東の方から月の昇ってくる様子はなく、銀色に輝く光はまだ届かないが、日の入りと月の出の時刻が日々変わっているからだろうと考える。日の出と日没の時刻変化については、季節の変化と共に昼の時間が長くなったり短くなったりするのだから、多少知識はある。だが、月の出の時刻はどの程度変化するものなのだろうか?恥ずかしいが知らない。

仕方なく、温かい飲み物を啜りながら座ってひたすら待つ。太陽も月も出ていない森は真っ暗である。空がかすかに明るさを残しているので、かろうじて近くにある木の形は分かり、小道も、その上を覆う葉が踏まれているために幾分明るくなっているので、かすかに認められる。もう数分もしたら月がぽっかり現れるのだから安心、こんな真っ暗な道を歩いて帰るなんて真っ平だ!

私は、小道を抜けて森の中へ... 駅へ... そして自宅に。大満足の一日だった。 ...