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「自然の中に心を遊ばせて」 : 第三章 : 夏の海 : 抜粋

潮が満ちている、さあどうしたものか。入り江の南端にある出口は、すでに岩が水中に沈んでいて通れない。前回の満ち潮を示す線は、海岸線に沿ってずうっと砂浜の一番高いところぎりぎりまで到達し、濡れていない場所は一センチもないくらいだ。海岸の背後は切り立った絶壁なので、登ることはできない……。

だからといって、それほど危険が迫っているわけではない。入り江の北端には草薮を抜けるくねった小道があり、人気(け)のある場所へ出てゆくことができるのだから。崖のぎりぎりまで潮が満ちるようなことになっても、安全に逃げられるだろう。だが、逃げたくはない。キャンプをするためにやってきたのだから! 数週間前、この計画を実行するための場所を探していて、ここを見つけた。そして偵察したときには、完璧な場所だと思った。太平洋に面した小さな入り江で、両端に突き出た岩が岬となっているし、入り江の背後はよじ登れない急斜面になっている。もってこいの場所に見えた。その時、満ち潮の痕跡を残す位置は、砂浜の中程までしか来ていなかったので、テントを張るのに十分な砂地が乾いたままに残っていた。心配する余地はまるでなしと考えた。

ところがである。今にも上ってくる潮に押し流されそうで、探索していたときに見つけた別の場所に移動しなくてはならないかのようだ。だが、都心に近いこの半島は、都内に住む人たちがこぞってやってくる場所である。調査目的でやってきて分かったのだが、夏になると、たとえ平日でも、海岸であればどこも人で一杯になる。僕が探していたのは、静かで人気のない場所。この海岸はほんとうに穴場だと思った。ここを見つけたのは、ほんの偶然だった。崖はほぼ垂直なので、陸伝いでは楽にやってこられる場所ではないし、南端には引き潮の時だけ通れる場所があるが、その先は岩を登ったり下ったりしながらでないと来ることができない。また、北側には唯一道があるのだが、大規模工事のためにここ数年は通路が塞がれた状態が続き、当分はこのままだろう。その結果、ここへはまず誰も来ない。偵察にやってきたときには、砂浜に人の痕跡はまるでなく、これほど東京に近い場所なのに、信じられないほどの発見だった! そんな訳で、今回のキャンプのために、新聞に出ている潮の満ち干の時間を慎重に調べて、ここにやってくる時間を調整し、僕だけのビーチへ来るのをそれは楽しみにしていた。

それなのに、あきらかな計算違いである。海と潮についてはまったく知識がないので、数週間前の満ち潮がそこまでなら、今日もほぼ同じくらいの位置になるだろうと推測していたのだ。知らなくてはいけないことがたくさんあるようだ。たたずんで、容赦なく上ってくる潮を見つめ、この変化は天気のせいかもしれないと気付く。数週間前は穏やかで凪いだ海だったが、今は大きくうねる波が岸辺に転がるように打ち寄せて砕ける。海水は、波が寄せる度に高く飛び散るので、砂浜を水浸しにしているのは、おそらく水面の上昇ではなく、この波の勢いではないだろうか。どうしようもない。どこか他へ行くか、一旦家に帰って出直すか、あるいは今夜ずぶ濡れになるかである!

だが、まだ諦める気にはなれない。もともとは昨日ここに来る予定だったのだが、天気予報を聞いた友人から、この辺りに高波が出ると警告されたのだ。今日の予報では、波も静まり夕立の可能性はあっても晴天ということで、高波や強風のことは何も示されなかった。この潮の跡が昨日の高波によるものであるのならば、今日はそこまで波が上がってくることはないだろう。そして、海岸の一番高くなっている辺りに、テントを張る場所を見つけることができるはず。しばらくここに座って満ち潮の様子を観察すれば、判断できるだろう。そんな訳で、リュックを安全な高い場所に置き、砂の上に転がっている丸太にもたれ掛かかって座り、何事もなければこれから二十四時、間我が家となる場所に馴染むことにする。

 

浜にできる湿った砂の筋が手前に近づいてきているのは、潮が満ちてきている証拠で、こうして見ている間にも、ちょっと強い波が押し寄せると一メートくらい余分に上ってきてしまう。今夜の満潮は七時頃の予定だが、時計がない状態では、いつになったら満ち潮が止まるのか分からない。観察してその時を見定めるしかない。でも今のところは、間違いなく確実に満ちている状態だ。丸太の上に座り、のんびりと満潮を待つ。

先日、このキャンプに持参する用具のことを考えていたとき、ふと双眼鏡を持ってきたらいいのではと思い当たり、近くの店でほどほどの価格のものを購入した。今それをリュックの中から取り出して、どんな風だろうかと覗いてみると、双眼鏡を使うのは初めてなので、こんな小さな道具がどんなに変化をもたらすかを体験してびっくりする。ぼんやりとネズミ色の筋にしか見えなかった地平線が、人々の住む活気に満ちた景色へと即座に変わる。海岸から真向かいを眺めると、東京湾をはさんで半島があるのだが、そこまでとても距離があるので、目の前に何千キロにも広がる大海原があるかのように感じていた。何という勘違いだろう。レンズを通して眺めると、突如新世界が出現する。幾重にも連なる山々があり、斜面を蛇が這い登るかのように道路が巡っている山も見える。また、様々な大きさと形の建物が海岸に沿って立ち並んでいるのが見えるし、小さく白い点がゆっくり端から端へと移動しているのすら認めることができる。海岸線に沿って作られた通りを車が走っているのだ! 観音像が空中にそびえているのも観察でき、こんなに遠くから見てもあれほど高いのだから、きっと桁外れに大きい像なのだろう。そんな対岸のすぐ手前の海では、湾内の港から出たり入ったりする船の列なのだろう、両端が霧の中に紛れるほど遥か遠くにまで左右に連なっている。ここは完全に孤立した浜辺のように感じていたのに! 舞台に上がっているのは僕の方で、何百万という人たちが海の方からこっちを見ていることになる! ま、そんなことはどうでもいい、見物人にとって、ここは長く続く海岸線のほんの一点にすぎないのだから。誰かが双眼鏡でこっちを見るとしても、砂の上に座っているこのちっぽけな生き物を認められるはずはない。いいんだ、いいんだ。僕は他の場所からは隔絶した場所に一人きりでいるつもりになっていよう。たとえ幻想でもいいじゃないか……。

 

衝撃が走るように双眼鏡のことを思い出し、袋の中から取り出すとテントの入り口を大きく開け、頭と腕が安定した姿勢で空を見ることができるように、マットの上に仰向けになる。さあ、クローズアップした彼女の姿を見るぞ!

そして再び、今まで繰り返しエッセイで書き、これからも書いていくだろう、嘆きを記さなくてはならない。僕の文章力の至らなさへの嘆きである。この空に見える存在を表現する言葉は、どうやったら見つかるのだろうか。でも、このことだけは言える。人里離れた僕一人だけの場所で、四季を通じてキャンプをするというこの企画を続ける間、もうこれ以上素晴らしい発見がまったくなくても、この試みは大成功だったと言えると思うのだ。なぜなら、もう五十年以上もこの惑星で暮らしてきたのに、一度として彼女を「見て」いなかったことに気付いたからだ。この言葉の羅列を読んでいる方たちは、大きくふたつのグループに分かれることと思う。ひとつは、天体観測を経験したことのある人たちで、今僕がこうして空に見ていることをよく知っている人たち。きっと同情しながらも僕の表現の拙さを笑っていることだろう。もう一方は、その他の人たちで、通常の知識の中でこの文章を読んでいる人たちだ。後者の人たちには、たった一言こう伝えたい。「今日カメラ屋へ行って、手頃な価格の双眼鏡を求めなさい」と。(僕のは四千五百円ポッキリで買えた単純な物だが、とてもいいものだ)そして次の満月を待って、その時が来たら、庭か窓辺の安定した場所で、とにかく覗いてみて欲しい。(もちろん、すっきりと晴れ渡った夜に越したことはない)そうすれば、僕の言いたいことを、きっと分かってもらえることだろう。そして、とりとめもなく不正確に書き連ねる僕に同情を寄せてくれることだろう。

それはまさしく球体!平らな背景に銀色の円盤が張り付いている面ではなく、ベルベットのように深い闇の大洞窟に漂う銀の球体なのだ。これでやっと「天体」の意味が分かった! 手に取って遊ぶどのボールとも同じように、月も完全な球形をしていて、しかも表面には模様もあるのだ。硬貨とボールの違いを考えて欲しい。心の中にこの違いをはっきりイメージできるだろうか。一方の平面性に比べ、もう一方は球なのだ。空中にぽっかり浮かんでいるのは球体なのだ。もちろん頭では知っていた。人間がそこまで飛んで行って、その表面で歩きすらしたのだから。それでも、僕には今やっとその形が実感されるのだ。それが、僕たちの住む星と連動して動く、もう一つの天空に浮かぶ世界だということが、やっと納得できた。

 

それにしても一体、何時頃なのだろう。太陽が天頂に届くのはまだまだ先だが、外は暑くなり始めている。泳ぐチャンスかな。水着と水中眼鏡はリュックの中にあるが、それはこの入り江の反対の端近くに置いてある。そんな物、なくてもいいじゃないか。すぐに服を丸太の上に脱ぎ捨て、次の瞬間には海に飛び込んでいる。体は温かい海水に支えられ、自由に漂う。

南にある岩だらけの場所まで運ばれてしまうといけないので、波任せにし過ぎないようにはするが、波が岸に押し寄せる度に体がふわりと浮いて行ったり来たりする程度には身を任せる。何度も何度も、柔らかな海岸の砂底にぶつかって、心地よい感触を楽しむ。泡立ちながら押し寄せる波で砂の斜面になった浜に持ち上げられるかと思うと、次の瞬間には、海に向かって吸い寄せられて海面に浮かんでいる。浮かんだ状態で海の方を見やると、自分に向かって寄せてくる波はものすごい高さに見える。だから、沖に出てサーフィンをする人たちは、かなりのスリルを味わっていることだろう。こんな風に高く盛り上がって見える波が、岸に向かって雪崩れ込むように体を運んでくれるのだから。でも、僕にはこの浜辺で十分。一度、かなり大きな波がやってきて、僕を浜辺の上の方まで押しやってしまい、仰向け状態の僕を砂の上に置いたまま波が引いてしまった。体を起こして海の方を見つめ、寄せる波が僕を白い泡で包み、無数のさざ波となって引いてゆく感触を楽しむ。太陽は、真正面の海の上方にあるので、水のどんな動きも全て光を反射して素晴らしく輝いている。海面も、波の中も、濡れた砂の上を漂う水も光を放つ。波が押し寄せる度に、腰や足の下にある砂をはぎ取ってゆくので、だんだんと体が砂の中に沈んでゆく。でも今は引き潮なので、ここまで達する波は次第に減ってきて、物憂い気分になってくる。眼はぼんやりと水の動きを追うだけ。波が寄せて引いてゆく、波がやって来て引いてゆく、また押し寄せて戻っていく……。

僕は誰? 何者? 眼鏡も双眼鏡もないので、遠くにある船も対岸も完全に姿を消している。僕は、どこかの島の人気のない砂浜に座っている、桃色の肌をした裸の動物。僕の周りにはたくさんの生命が息づいている。岩の上にいる裸のカニ、海の中で泳ぐ魚も裸、砂の上にいる昆虫も裸……。僕はこういった生き物の一部なのだろうか? ここにいる素っ裸の生き物は、この浜に所属するのだろうか? この島には? 地球上には? ここにいるカニたちは、食べ物や隠れ家がどこにでもあって、問題なくここで「生活」している。魚たちだって昆虫だって、ここにいる生き物はみんな同じだ。でも、「コイツ」はどうなんだ。もし僕が突然、テントも服もスーパーマーケットもないこの場所で生きなくてはならなくなったら……、生き延びることができるだろうか? かなり疑わしい。数日間くらいは、カニや貝を捕まえて飢えを凌(しの)げるだろうが、その後はどうなる? 台風が襲ってきたら、すぐに吹き飛ばされてしまうだろう。どう考えても、ここに生息している生き物のようには「自然」な感じがしない。だが、人間にとって「自然」とはどういうことなのだろう。人間は、魚が欲しければ捕まえるための槍を作ったり罠を仕掛けたりする。悪天候からは避難しなくてはならないから、逃げ込む住居を作る。人間にとって「自然」な状態とは、物を作り使うということなのだ。だが、槍や住居を作り、道具を使えば、僕が後にしてきた途方もない団塊を創り出すことになる。僕がそこから逃れるためにわざわざここにやってきた、大都市という名の団塊だ。

この浜に座っている今、体の半分は砂に埋まって、寄せる波に洗われている。でも、自分はここの自然の一部ではなく、家の中で調理された食品を脇に置いて、パソコンの画面に覆いかぶさって生きる存在なのだという現実から逃れることはできない。道具を使う人間にとっては、そんな生き方こそが「自然」な状態でしょう? それが本当だとしても、こうして水の中に横たえているとこんなに心地がよく、いつもの生活に無理を感じるのは何故だろう。一体何故?

この問いへの答えは見つからない。でも一つだけはっきりしているのは、このキャンプの準備をしているときはとても楽しいのに、帰る準備をするのは気が重いということだ。