デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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「忘れられた美」 その1

あと数か月ほどして年を越すと、まもなく、版画家として生計を立てるようになって20年の節目を迎えることになります。10年企画の百人一首シリーズを開始したのは、平成元年の初めでしたから。以来私は、新聞・雑誌・ラジオ・テレビと、数えきれないほど様々なマスコミのインタビューを受けてきました。御陰で宣伝効果はありましたが、たとえ200回僕のことが新聞に書かれても、200回分の情報があるというわけではありません。読者は、ほぼ同じ内容を200回繰り返し読まされるだけなのです!

ですから、たいていはマスコミの申し入れを受け入れて、できるかぎり「素直な」回答者として振る舞いはするものの、結果として書かれた記事や番組は、私の目から見れば、自分のしていることの大筋を説明するだけで、例外なく単純で底の浅い内容になっています。

でもいいチャンスが1度ありました。それは、1時間のドキュメンタリー番組で、私の仕事についてかなり踏み込んだ取材をし、それまでの不十分な情報を補ってくれるものでした。でもその頃の私は、まだマスコミに対処する方法を知らなかったため、プロデューサーは視聴者の期待に沿うよう、私の生活を感傷的な視点で捉えてしまったのです。

では、一体どうやってこの不釣り合いを修正したらいいのでしょう。1時間のドキュメンタリー番組に出演する機会などまれですし、近いうちに再び依頼がくることなど期待できません。でも、映写機など必要ないことに気付きました。そういった番組があればこんな風に作ってもらいたいと思う内容を、自分で書けばいいのです。私なら、どんなプロデューサーよりも一番良く自分のことを知っているのですから。

そんなわけで、このアイデアを元に、新しいシリーズをこのニュースレターに掲載することにしました。自分の版画制作活動を、1時間のドキュメンタリー番組にするという設定で、シナリオを書いてみるつもりです。私自身が、最も大切かつ適切と判断する内容を網羅した — そうなるといいのですが — 番組です。

さてと……、1時間番組を想定すると、8〜9分くらいにまとめた内容が、コマーシャルをはさんで6回分になるでしょう。番組最初の場面は、私の工房が最適。これを書いている今、空には雲が多くかなり寒いのですが、シナリオライターは好きなように書けばいいのです。そう、太陽が降り注ぐ、気持ちのいい暖かな日としましょう。 ライト……カメラ……アクション!

***
[第1話]

[コールド・オープン] [カメラはいきなり現場を映し出す]  苔むした石の上を、川がさざ波を立てて流れる。穏やかなせせらぎの音と鳥の声が聞こえる。カメラはゆっくりと後退し、景色全体を映してゆく。小川は緑に囲まれている。カメラはさらに後退。すると、見ていた映像は窓の中から撮影されていたことが分かる。部屋の内部が見えてくるにつれ、音も変化する。さざなみの音が次第に小さくなり、新たな音が聞こえてくる。鋭利な彫刻刀が木を彫るかすかな音。場面はデービッドの工房、彫の作業をする彼の姿がある。

[ナレーション] ここは東京の青梅。小川を見下ろす版画家デービッド・ブルの工房です。耳を澄ますと、デービッドが版木の上で彫刻刀を動かす音が聞こえてきます。彫刻刀は、日本刀と同じ技術で鋼付けがされています。版木の材は、固くてきめの細かい山桜。日本の木版画には、何百年もの間この木が選ばれてきました。[彫の音が続く]

[デービッドの声] 「彫刻刀を研ぐ頃合いは、感触もありますが音でも分かります。刃がすんなりと木を切っていく音でなく、木を裂くような音になってくるからです。刃は、できるだけ鋭い状態にしておくことが極めて重要です。私の作品には細い線が多いので、刃が鈍くなっていると、切り口がささくれた状態になるので、摺っているときに水分がそこに染み込んでしまいます。そうなると、摺られた線は繊細さと味わいを失ってしまいます。」

[カメラ] クローズアップ。デービッドの作品(伝統木版画の復刻版)をいくつか映し出す。特徴を示す細部を何か所か見せつつ、デービッドの話が続く。

[デービッドの声] 「日本の伝統木版画は、世界中を代表する最も驚嘆に値する美術のひとつです。多様な文化の中で発展した芸術を研究する人たちは、人類が成し遂げた多くの「爛熟期」をはっきり確認しています。古代ギリシャの大理石彫刻、イタリアルネッサンス期の絵画、ドイツ由来のシンフォニーなどなど。そして、江戸時代の絵師と職人によって作りだされた作品の数々も、人類の成し遂げた崇高な業績の1つだということは、はっきりしています。作品を作ることに関わった人たちは、微塵もそのようなことを考えたことはなかったでしょうが。

「日本の浮世絵版画が、どのような経過で世界中に知られるようになったかは、一般によく知られています。ヨーロッパの人たちが、(彼らにとって)まったく違う手法で作られた絵を初めて目にした時は、どんなに感動したことでしょう。平面的な色使い、空間を巧みに生かす妙技、筆の醸し出す書のように繊細な線の流れ。こういったこと全てが、異なる文化の中で芸術やデザインに関わる人たちに大きな衝撃を与えたのです。」

[デービッドがカメラに向かって語る] 「そしてその後、何年にもわたって、その母国においても、伝統木版画の価値を認識する人たちは増え続けました。今日、普通の日本人なら誰でも、版画のあらましを理解していると思うでしょう。北斎・広重・写楽・歌麿といった大家は、誰でも知っています。また、荒れ狂う大浪の構図・昔の東海道・しかめっ面をした歌舞伎役者・吉原の遊女といった、版画を代表するような絵はどなたも見たことがあるでしょう。こういった絵は、日常いたるところで目にします。

「でも、『伝統的木版画』と聞いてこのような作品ばかりを思い浮かべるようですと、大事な部分を見失っていることになります。たとえば、日本であれ海外であれ、『名所』と聞いて『最高』とされる場所だけを見ようとすれば、その他の場所すべてを無視することになりますよね。その『最高』とされる場所は、どこも同じようであったり、観光化されていたり、歪められたりしているため、実際のところ、私たちは何も見ず、体験もせず、理解もしないことになってしまうのです。

「私の工房を尋ねてくる人たちに、私はいつも次のように単純な質問をします。『日本の伝統木版画を見たことがありますか。』すると決まって、こう答えが返ってきます。『はい』そしてそのあと、部屋で私の作品を見せて説明をしたり、楽しくおしゃべりをしたりしてしばらく過ごすと、決まってこう言うのです。『これで分かりました。今まで全然……。』

「みなさんは、まるで分かっていなかったのです。工房に来た人たちだけでなく、この国に住むほとんど全ての人たちは、忘れてしまったのです。北斎の画く大浪などが広く知られすぎているため、忘れてしまったのです。」

[主題]
[伝統木版画の忘れられた美]

[カメラ] タイトルの文字が流れる……。場面は再び工房、彫の作業をするデービッドがいる。切りのいいところまで作業が済んだ様子。道具を置いて手元を片付け、作業台から立ち上がる。カメラは外を映し出す。川の眺め。その片隅に、工房のドアーを開けてデービッドが出てくるのが見える。彼は、そのまま階段を上がって行く。場面は部屋の中。デービッドが入ってくる。作品をしまってある棚のところへ行き、ファイルを取り出すと、座ってそれを見せる。

[デービッドの語り] 「私は、ちょっとしたクイズを用意しました。気楽に考えてください。よく見えるように持ちますね。さあ、この絵を見てください。これは木版画でしょうか、それともカラーコピーでしょうか。」

[ナレーション] デービッドは尋ねてくる人たちほとんどに、この質問をします。もっと近寄って見ましょう。でも、まだはっきり分かりませんね。伝統木版画のように見えますが、カラーコピーを見せて私たちの目をごまかそうとしているのでしょうか。よく分かりませんねえ。

[デービッド] 「分からなくても気にしないでくださいね。わざと分かりにくくしている訳ではないのですけど、ちょっと照明を変化させてみたら、きっと言い当てられますよ。」

[カメラ] デービッドは立ち上がって天井から下がっている照明を消す。それから持っている紙を、窓辺に置かれた小さな座卓の上に置く。カメラは絵をアップで映し出す。すると、大きな変化が現れる。この状態で見ると、木版画だということが一目瞭然となる。カメラは、デービッドの示す部分を更にアップで映し出す。

[デービッドの声] 「これではっきりしたでしょう?そう、本物の木版画です! 見た目に分かるだけでなく、和紙の感触まで伝わってくるでしょう? この部分を見ると、和紙に摺られた線の部分は窪んでいますね。[カメラは別の場所を映し出す] ここでは、違う色が混じり合ってとてもきれいですね。どの部分を見ても、和紙の繊維に色が吸い上げられて、この見事なことときたら、とても感動するでしょう?

「これほど違って見えるのは、なぜでしょうか? それは、版画が作られた時と同じような環境 — つまり平らな場所に置いて、水平に差し込む光で見ているからです!

「ちょっと歴史を振り返ってみましょう。江戸、明治の頃には、天井から電灯が下がっている部屋などありませんでした。明かりは窓から入ってくるもの、夜になればランプか燭台だったでしょう。これはとても重要な点です。つまり、木版画に注ぐ光は水平に近い状態だったのです。」

[カメラ] 実際に体で示しながら次の要点を話すデービッドを映す。

[デービッド] 「この違いをもたらしたのは、光の方向だけではありません。西洋とアジアで、どのように絵が画かれてきたか考えてみましょう。日本の絵師たちは、低い座卓か畳の上に紙を置いて画いていました。この時点で、すでに紙は水平状態に位置することになります。一方西洋では、キャンバスをイーズルに置くため、垂直に近い状態に置いて画くことになります。もちろん遠近法や表現方法に関する考え方も違います。西洋の絵は、ほぼ垂直な状態で画かれ、それを額に入れてから壁に掛けて鑑賞されます。まるで窓から外を見ているかのような状態です。それで丁度いいのです。

「ところが、日本の絵は水平な位置に置かれ、絵師も畳の上に座した視点から見ているのに、私たちはそれを額に入れて壁にかけている。これは、とんでもないことです!

「まだあります。昔の日本の家では、絵が壁に掛かっているなどということはありませんでした。床の間には掛軸を掛けますが、取り替えることが前提です。作品は基本的に保管され、季節毎あるいは特別な行事などに合わせて選ばれ、鑑賞されたのです。ですから、いつも新鮮な気持ちで見ることができました。

「でも最近は、殺風景な壁面に何かを飾る人が増えました。絵を掛けた最初の日は、装飾性が増したことに満足することでしょう。その週も、似たような状態でしょう。でも、その後はどうなっていくでしょう。もうお分かりですね。そう、作品は壁紙の一部となり、もう気付くこともなくなってしまうのです。

「現代アートの多くは、この目的にぴったりです。色鮮やかで装飾性があるからです。でも、非常にきめ細かく細部までも表現した伝統木版画は、違います。それを正しく鑑賞するためには、手元に引き寄せて斜めの方向から、新鮮な気持ちで見ることです。そうすると、いえそうした時にだけ、その美しさを理解することができ、20人以上もの職人の技術を結集して作られた作品を味わうことができるのです!」

[ナレーション] 20人ですって? デービッドがひとりで作っているのではなかったでしょうか。

[デービッド] 「ちょっと前、天井の照明で絵を見ていたとき、この作品の絵師 — この場合は岳亭ですが — は、別に気を悪くするようなことはなかったでしょう。でも、制作に関わった他の人たちの存在は、まるで見えませんでしたね。まず、どなたもご存知の彫師と摺師。私は両方とも自分でしていますが、本来は別の職人です。

「版画は、この3人だけで作られるわけではありません。その他、一連の人たちの技術と参加がなければ、この美しい作品が生まれることはなかったのです。山桜の木を選び、切って乾燥させる人、かんなをかけて版木にする人、刷毛用に最適な馬の毛を選ぶ人、紙すき用の簀(す)を作る人、出来上がった和紙にドーサを塗る人、……。数え上げたらきりのないほどです。

[カメラ] デービッドの話が終わる直前に、作品を大映しにする。卓上には柔らかな光がそそぐ。

[デービッド] 「制作に関わった人たち全員がこの版画に見えます。静かに座って見ようとすればですが! そして、もしも鎖のように連なる輪のひとつでも欠けたら、版画はもう作れなくなるのです。現在は、危うい輪がいくつか出てきていて、版画の将来は確かなものとは言えない実情です。」

[第1話終了]
つづく

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