あきる野市の野田正・美江子様から..
ブルさんと第一回の展示会でお会いしてから早九年が経ちます。 十年一昔と申しますが、ブルさんの家でもいろいろな変化がありました。わが家も羽村市からあきる野市に引っ越し、毎月の版画を楽しみに待ちました。
版画の中では、髪の細さや、色づかいの変化がありましたね。又、「百人一緒」を通して、ブルさん自身のことや、版画製作のうら話など、沢山の話も楽しみました。わが家の宝物は100枚になりました。
ありがとうブルさん。そして100枚完成おめでとう。お疲れ様でした。 ヤッタネ、ブルさん!
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この10年間という長い旅の終わりにあたり、「時が経つのはなんて速いんでしょう!」と思ったのは、きっと私だけではないと思います。デービッド、あなたにとってはそれほど速くはなかったでしょうけれど。来る月も来る月も、そして来る年も来る年も、作業台に向かって努力を重ねてきたのですから。しかし私にとっては、「百人一緒」ニュースレターの表紙にある小さな丸は、一夜のうちにいっぱいになってしまったような気がします。そして版画も。
いつどこでこの「大作」に関わるようになったのか、私ははっきりと思い出すことができます。日本に来てまもないある日、ジャパンタイムズでジーン・パースのコラムを読んだのです。それには木版画についての10年計画を始めた人のことが書いてありました。数分後、私は職場の公衆電話で、あなたに問い合わせの電話をかけていました。あなたは「とりあえずご覧になって下さい」と、数枚の版画を送ることを申し出てくれました。見知らぬ人に高価な版画を送るという態度に私は深く感銘を受けました。そもそもどうしてこれに参加しようと決めたのかはわかりません。深遠な計画に参加する喜びに加えて、「芸術を支援する」という考えもあったと思います。版画そのものの素晴らしさが本当に分かり始めたのは、もっと後のことでした。あなたが版画の見方などをいろいろ教えてくれてからです。
私が収集を始めたのはシリーズが始まった少し後のことだったのですが、あなたは、最初から収集を始めた人に追いつくまで毎月2枚ずつ購入する方法があると説明してくれました。これは家のローンを早めに払ってしまうような感じがしましたが、私は 最初の数枚を決して逃したくないと思いました。ですから思い切ってやることにした のです...
当時、私は「百人一首」の文化的背景をほとんど知りませんでしたし、全部の版画を集め終わるまで日本にいるだろうとも思っていませんでした。むしろ、1年か2年参加したら故国に帰り、版画のうちの何枚かは親しい友人にあげてしまおうかと思っていました。ところがどっこい!10年経って、私はまだここにいます。そしてもはやこの100枚の版画を手放そうなどとは思っていません。自分のお腹を痛めた子供を売りとばさないのと同じです。あなたが調べてくれたことと私が調べたことを合わすと、百人一首に関する私の知識は100倍になったような気がします。でも、実を言うと、この素晴らしい版画は、私の興味を一層かきたててきたのです。あなたがいつも言っているように、学ぶべきことはまだまだたくさんあるのです。
こうした個性ある芸術作品を持っていると、とても満たされた気持ちになります。私は進行中の企画に参加するというのを楽しんできました。これは、たくさんのお金を払って、店で「芸術作品」を買って出て来る、というのとは違っています。あなたが芸術家として成長し、技術が向上するとともに自信もついてくる、という姿をみているのは楽しいことでした。原作と違った色を使うかどうかといったような、何かの決定に際しては、私はあなたほど深く考えることはありませんでしたが。(でも、私達にそれを尋ねてくれたのは嬉しいことでした。たとえ、決めた後のことであっても。)
版画とともに届けられる説明は、このうえもなく貴重なものでした。実を言うと、版画のフォルダーをあける前に説明を読むことがしばしばありました。そういう順序にすると、版画を見る準備ができているように思えたのです。時にはあなたの説明に基づいて、実際に版画を見る前に、版画がどんなふうなのか想像するようにしました。(でも、私の想像があたることはほとんどありませんでした!)これらの説明がなかったなら、私には版画の良さはあまりわからなかったことでしょう。
ニュースレターを出してくれたことにもお礼を言いたいと思います。そのおかげで私はこの企画についてより深く理解することができるようになりました。あなたの仕事を支えてくれている人たちや職人についての説明や紹介を読んでいたので、版画の包みを開ける時にはいつも、私は歴史や文化を少しでもこの手にしているんだ、という思いを強くすることができました。
これは、この企画の熱烈なファンのほとんどの人の気持ちを代弁していることになると思うのですが、私は何よりも、あなたの断固とした態度を素晴らしいと思っています。この企画をどんなふうにするか、というあなたの考え、そして、それを現実のものとしていくあなたの粘り強い姿勢に、私達ひとりひとりがそれぞれ驚嘆しています。私達素人にできる精いっぱいのこととして、彫りや摺りをするための惜しみない努力に拍手を贈ります。しかしそれ以上に、ひとつのことにこだわってじっと目標を見つめ続けてきた大いなるガッツを称えます。
大変な広がりを持っているこの企画に関わってきて楽しかったです。自分がその一部であるというのは、何か特権を持っているような気持ちでした。あなたの次の挑戦が何であれ、それがうまくいくことを祈っています。賞賛と感謝をこめて、そしてもちろん、お祝いを言わせて下さい。
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いよいよだね。おめでとうを言いたいけど、なんだかさみしい気もすね。デービッドが今から又大きな転期が向えられる。ズルズルと人生を送ってしまう人が多い中で、君はいつまでも若くいられると思います。
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私とブルさんとの出会いは、ある雑誌に、小野小町の版画とともに載った写真がきっかけである。あれから10年近くの歳月が流れた。毎月送られてくる版画を2枚交替で居間にかかげることが、私の楽しい生活サイクルの一部となった。
百人一首は子供の頃、冬のこたつでの、坊主めくりやカルタ取りの遊びで、縁が切れてしまったと思ったが、人生半ばでの思わぬ出会いとなった。
私は版画はズブの素人ですが、ブルさんの近況や一枚一枚を仕上げる思いをレターで読むたびに、物事にあたる真摯な姿に感銘をおぼえました。百人一首シリーズは完結しましたが、これがらも持ち前の感性と技術が、更に大きく花開くことを祈ってやみません。
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素晴らしいお仕事に心からの祝福を送ります。私は妻の幸子と共に数々の芸術作品を蒐集してきて25年になりますが、この10年プロジェクトの作品をコレクションに加えることができ、大変嬉しく思っております。収集家にとって、新たな才能を発見するのは大変嬉しいことで、君はその中のひとりということになります。君の作品についてもっと書いてほしいと思うかも知れないが、作品はひとえに君の人柄を反映したものだし、また君の夢を実現したものだと思う。知り合いになれたこと、そして君の技術を磨く様を目の当たりに出来たのは幸運だった。これからの成功を祝ってサッポロビールで乾杯!!
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100枚の版画がやっと終わりました。とても短い10年でした。私達は父がいつ版画を始めたのかすら覚えていませんが、紙がうず高く積まれた大きな仕事台と、ネコのミミを膝に寝かせて摺りや、彫りをやっていた姿は、よくおぼえています。以前は「お父さんの版画をどう思う」と聞かれても「わかんない」と答えたけど、今は、人々から忘れさられてしまった昔々の木版画を再現し、それらがどんなに美しいものであったか思い起こさせることは、とてもユニークですばらしいことだと思います。それから自分で、仕事を造り出してビジネスにしていくなんて、よくやってるなと思います。父がアーチストのシャープな目と耳を持ち続け、美しい版画を創り続けていき、そして偉大な父であり続けますように。
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お父さんと私はあなたのニュースレターをいつも楽しみにしています。それは私達にとって、違う世界への窓です。でも、この言い方は正しくありませんね。建物や言葉や習慣は違っていても、私達には共通するところがたくさんあります。母親は同じように家族のことを気にかけているし、子供達は宿題の心配です。私達は、違っているところよりも似ているところの方が多いのだと思います。羽村に行った時はいっぱい笑って楽しく過ごし、ずいぶん親切にしてもらいました。ハリファックスを歩き回るように、羽村を自由に歩き回ることができたらおもしろいだろうな、と思います。私の近所の人もあなたのニュースレターを楽しみにしていて、おかげで、彼女のお孫さんは、いつも学校の「お話をする時間」のネタに事欠かないのです。
息子のことを誇りに思うなんて、言っても良いかしら。そしてこの場を借りて、あなたを暖かく迎えてくれた日本人たちすべてにお礼を言わせて下さい。1月にまたそちらの友人のみなさんに会えることを楽しみにしています。
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「百人一緒」の読者の皆様、はじめまして。私は、テレビの番組を製作しております、古市礼子と申します。デービッドさんと、デービッドさんを通じて皆さんのことを、興味深く拝見して来た者です。6年前、取材でお目にかかってから、デービッドさんと、「百人一緒」は私にとって、いつも心のどこかにある大切な、大切なテーマでした。何故、大切なテーマとなったのか、という体験をお話します。
1992年に、デービッドさんとご一緒に彫師の伊藤進さんをお訪ねしたことがあります。摺師の松崎さんからお願いして頂いて実現した訪問でした。(この日のことは、デービッドさんも以前、「百人一緒」で書いていらっしゃいますが、同席して取材をしている私達には、又、別の物語がありました。)
伊藤さんは、年配の気難しそうな「職人」さんで、私などは、どのような口のきき方をしてよいのかも分からず、ビクビク取材を始めました。
さて、デービッドさんと伊藤さんは、二人並べて見ると実に奇妙なツーショットで ........ まず、体の大きさからして違いすぎるので(伊藤さんは小柄なうえに、背中をまるめて仕事をします)ふつうのサイズで、収まりません。デービッドさんは、大先輩の前で恐縮して小さくなっているんですが、カメラをのぞくと正反対。デービッドさんが伊藤さんをいじめてでもいるようです...。
つまり、なかなか撮影のしにくいシチュエーションで、カメラマンは、私を時々恨めしそうに眺めながら、二人の頭や肩の隙間をねらい、彫刻刀がころがっている(イエ、置いてある)畳に座り込み、とんでもない格好で四苦八苦しています。
そして、さらに、当時は、デービッドさんの日本語を聞く力だって、まだ十分ではない状態だったのに、伊藤さんの話し方 ... 私達日本人スタッフにも、よくわからないところが ... 一体この取材は、うまく行くのだろうか ... と不安になりました。
ところが、伊藤さんは、カメラなど無視して、物凄い熱心さと集中力で、デービッドさんに、いろんなことを教え始めたのです。伝えようというエネルギーが伝わってきます。二人は共通の問題意識に向かっているため、全ての障害 (?) をものともせず、夢中になって教え、教わっています。伊藤さんの教え方は、どんどん具体的になり、とうとう身振りが90パーセントと、単語を並べているだけのような日本語で、「彫りの秘訣」をデービッドに教えているではありませんか。
学校なら、何年分もの講議を、この数時間に教えようとしているかのような勢いです。デービッドは、全身で、聞いています。次第に私達にも伊藤さんが大きく見えてきました。
一本の彫刻刀がデービッドさんの手と伊藤さんの手を行ったり来たりし、まるで手を握りあってでもいるかのような、濃い時間が流れています。年令の差、言葉のギャップ、外国人と日本人、そうした全てを飛び越えた、人と人との幸福な出会いと思われました。カメラマンの中羽健一郎さんは、いつまでも、いつまでも、その「二人の手」を撮り続けていました。
帰ってから、私達は、二人の男性の手が何故かとても美しく見えたことを、何度も何度も話し合いました。
何故、伊藤さんは、あんなにも熱心に自分の技術をデービッドに伝えようとしたのか?デービッドは、何をしようとしているのか?日本の木版画を私達は、知っているのか?日本の伝統文化は、どうなっている?......
そして、その結果、ニュースになるような社会的大事件でもなく、ビックリするような派手な場面があるわけでもないだろうけれど、私達は、デービッドとデービッドにまつわる皆様の10年のことを、番組としてもっと描きたいと考えるようになりました。
私には、デービッドさんを中心とした、「百人一緒」の皆様の輪があることそのものが、とても、興味深く、うれしいことなのです。近い将来、この輪は、質的な変化をとげて、大きな力になって行くように感じられます。デービッドさんの百人一首の完成を待って、番組も出来上がります。
皆様完成パーティーでお目にかかりましょう!
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土井昭美様 (「百人一緒」、版画エッセイの翻訳担当) から...続いての5つのメッセージは、裏方として10年間協力してきて下さった女性達からのものです。版画そのものは私が作るわけですが、このプロジェクトを進めるためにはおびただしい量の細々した仕事がありました。版画を包装するケース作り、梱包と発送、毎月のエッセイやニュースレターの翻訳、などなど。この裏方さん達に、このコーナーのためのちょっとした文章を書いてくれるようにお願いした時、どう反応するか気になっていたのですが、予想通りでした。皆、表立ったことはしたがらなかったのです。でも僕としては、それでは気持ちが納まりません。陰の支えがあってこそ、ここまでやってこられたのですから。皆様も、そんなお礼の気持ちを抱きながら読んでくださいますよう。
私が、初めてデービッドさんからニュースレターの翻訳を頼まれたのは93年の9月でした。 英語を勉強していた私には願ってもない話で、それにもちろん、デービッドさんの仕事にも興味がありましたので、喜んでお引き受けしました。やってみると、自然な日本語に翻訳するというのは、なかなかむずかしいものでした。
とりわけ、デービッドさんから、「できるだけカタカナ言葉を使わないでほしい」と要請されて、苦労しました。日本の伝統文化を守っている人々は、デービッドさんより年上の方が多く、デービッドさんは、「そういう方達にもすぐわかる日本語で書いてほしい」とおっしゃっていました。確かに、今は、安易に英語をそのまま使う傾向があり、私もそういう風潮には疑問を感じています。しかし、英語に対応する日本語がいつもあるわけではないし、日本でも英語がそのまま日常語として定着している言葉も多いのですが、「イメージ」「デザイン」「グループ」などといった言葉でも、「なんとか日本語で書けないか」と言われて困りました。あるいは、「パソコン」という言い方は嫌いだ、とか。その時々で、なんとか日本語にした場合もあるし、これはやっぱりカタカナでいきましょう、と納得してもらったこともあります。
でも、訳した日本語をデービッドさんに読んでもらって、この訳でいいかどうか検討するのはいつもとても楽しい時間でした。実際にできあがった版画を見ながら、デービッドさんに解説してもらい、「本当はこのことについても書きたいんだけど。」と、毎月のエッセィに収まりきらない話や、ちょっと大きな声では言えない話も聞かせてもらったりして、これほど楽しい仕事はそうそうないと思います。
力の及ばない所もあったと思いますが、毎回、訳を検討しながら、デービッドさんの思いができるだけきちんと伝わるように努めてきたつもりです。展示会で、版画の横に並んだ私の訳をお客さんが読んでおられるのを見て、この仕事のお手伝いをさせていただいたことを本当に嬉しく思いました。
翻訳を始めた頃、下の娘はまだ1歳で、デービッドさんと訳を検討していても、彼女がぐずったりして中断しなければならないことがしばしばありました。でも、デービッドさんはそんな子供達にいつも優しく接してくださいましたし、おもちゃをいただいたり、子供達が大きくなってくるとパソコンで遊んでもらったり、子供達まで随分お世話になりました。
本当にありがとうございました。
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デービッドさんとの出会いは、息子が英会話でお世話になったのが始まりでした。暫くして私に仕事のお話がありました。私の主な仕事はホルダーを作り彼のサインが入った作品を差し込み、ラッピングし、収集家の皆様へ良い状態で届くようにすることです。ほとんどが手作りとは聞いていたのですが、ホルダーを作る道具までも彼の手作りとは驚きました。
スプレータイプのりや口紅タイプのりを使い、台紙に和紙やレザックを貼りつける作業。スプレーのり?私はそれまでこんなものがあることを知りませんでした。のりの使い方が悪いのか紙が波うつ。和紙をカットする作業ではカッターナイフは使っているから大丈夫!なんてそれは甘〜い考えでした。力を入れすぎ段ができてしまったり、まっすぐ切っているつもりが歪んでいたり...失敗ばかり。不器用な私はガックリ。彼のアドバイスをもらい試行錯誤しながら何とか納得のいく品物が出来たのはだいぶたってからのことでした。
現在は市川さんと石川さんが頑張って作っておられます。デービッドさん貴重な3年間ありがとうございました。
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羽村スイミングセンターに通ううち、泳ぎにいらしていたデービッドさんにお逢いしました。髪もひげも、もじゃもじゃの変った外人さんだと思いましたが、日本語もお上手で、日本をよく理解していらっしゃいます。
そして最も日本的な百人一首の版画作りを十年かけて製作なさるとの事。そして平成四年六月頃、版画用のホルダー作りから、発送までのお手伝いの事を伺い、私でも出来るかしらと、不安でしたが、見学をしたり、御指導をして頂いたりして、やらせて頂くことにしました。始め数々の行程の一つ一つすべて神経のいる手作業におどろきました。たまに失敗して御迷惑をおかけしたりしました。
ホルダー作りは、あつい夏の日は汗かきの私は「鳥の子」の上にたれそうになる汗をふきふき、冬は紙をつけるスプレーのりが室内では出来ず、戸を明けっ放して寒さの中で震えながらの作業など、ほんとうに大変でした。ブルさんの丹精こめた美しい版画が納められて、収集家の皆様のお手許に届けられますのをたのしみに一生懸命作りました。
十年間一筋に版画を細かい所まで彫り、一分のずれもなく摺られ百枚を完成されて、ほんとうにお目出とうございます。私も六年近い長い間のほんの一部のお手伝いでしたが、終って感無量です。少しでもお役に立てたら幸いです。
こん後の御活躍をお祈りして、又たのしみに致しております。
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デービッドさんのお手伝いを始めて5年半位になります。毎月作品が完成するまで版画を入れるホルダーを作ることが私の仕事です。材料の紙、接着するスプレーのり、紙を切るカッターなど扱い慣れていないものばかりで何度か失敗がありましたが、10年で100枚の作品を作るというとてもすばらしい計画のお手伝いができた事をとてもうれしく思います。
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5年前、時折泳ぎに行くプールで、「背中を丸めてひざを抱え、ぼんやり水面を見つめる、痩せた髭もじゃの外人」を時折見かけた。「なんて暗い、陰のある人なんだろう」アカンベーをして笑わせてみたいようなそんな衝動に駆られた。木版画?職人?シングルファーザー?彼を形容するどんな言葉の中にも私を引き付けるものは無かったのに、その眼の奥の深いところに吸い寄せられる何かを感じた。そしていつの間にか5年。なんて澄んだ心の持ち主なんだろうと思う。良くも悪くも万年青年のごとくで、当たりの柔らかさの陰に強情なまでの信念がある。そして、それを支える強靱な精神の持ち主である。
十年の間には、いろいろあったらしいけれど、何があってもこの人は突き進んで行く。今までも、そしてこれからも。
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