句会

今月の作品は四条派風の絵で、浮世絵がくっきりとした明確な線で描かれるのに対し、とても絵画的です。署名は「山方」となっていて、「写」という文字が加えてあるので、無名の絵師によるものを山方が写したのか、あるいはその逆に山方の作を誰かが写したのか、本当のところは知る由もありませんが.....

右側にある絵は、そっくりそのまま復刻しています。原作では(今ここにあって)書の部分が左にずらりと続くのです。つまり、前書きとそれに続いて狂歌が35句あり、甲寅年とあるので、1854年に作られたものと推測できます。おそらく、句会の集まりを記念して作られたもので、良い句がたくさんできた思い出として参加者達が作ったものでしょう

では、どうして全部を復刻しなかったのか?理由のひとつは、単純に長過ぎるからです。35句を載せるのは場所をとります、なにしろ幅が56センチもあるんです!他の理由は、書と絵の部分のバランスを考えなくてはならないということです。このように草書で書かれていると、収集家の方の多くは読めないのではないかとも考えますし(実際私も読めません!)、とにかく多すぎるんです。そういう訳で、この復刻版には前書と、ふたつの狂歌を選んで加えておきました。

三月朔日境内の老樹をかたどり
  狭筵をのべて賓客を待つ

 「神楽のあとを崩すお旅所」 *
  「老木ほとたしかや花の枝配り」

*お旅所=神輿が本宮から出発して、仮に鎮座する所。

どの句を選ぶかは簡単でした。各々の作者がわかるようになっているので、山方の作った句を2作です。かくして、「山方の摺物」ができたことになります!

この絵の細部を観察して、どんな会だったのかを考えるのも構面白いものです。赤い塗り物の机、陶器の模様、高さのある飲物用のグラス....こういったひとつひとつの物が、中国料理の会食であったことを伝えています。でも、年代を思いだしてください、製作は1854年で、黒船に乗った米使ペリーが最初に浦賀にやってきて日本に開港を迫った、その翌年です。とすると、1年後にはもう横浜に中国料理店が開かれていたのでしょうか。さあ、私にはわかりませんが、江戸時代の日本が完全に外国から閉ざされた国であった、という印象があるとしたら、それは違っているようです。輸入商品は長崎の出島から細々と流通して来ていて、摺物に興味のあるような人達は、外国からの珍しい品を手に入れる事のできる富を持ち、また、そんな立場にもあったということがわかってきます。手許にある江戸時代の摺物関係の本を繰ってみると、こういったことを示唆する箇所がたくさんでてきます。1800年代初期の作品には、ペルシャの時計、望遠鏡、それに韓国のインコが描かれていますし、1820年代の大阪には輸入品店があったという事も記されています

ここに描かれた中国料理は、おそらくこういった類いでしょう。当時の幕府は、富をひけらかすことを禁止しようと節倹令を発しましたが、この宴会に参加した人はまず間違いなく、後になって、この摺物を知人に見せたことでしょう。「ま、私の集めた摺物帖を見て御覧なさいな。ほんとに大した物じゃあないけど、ま、ほどほどでね。これはね、ちょっと前にやった句会の記念に作ったやつでね、.....」などと言って。するとお客は、明らかに驚嘆の色を示して、....

私は、こういった摺物が虚栄心を満たすためにのみ作られた、と言うつもりはありません。視角的な美しさと狂歌の面白みを具現する手段であったというのは当然の事実です。でも、たくさんの摺物を見ていくと、できるだけ豪華かつ高価な作品を作ろうとしたという印象をまぬがれないのです。

こう書いてくると、当然気になってくるのがみなさんのことで... 。立ち寄った友人に「摺物アルバム」を差し出して、「私の集めた摺物アルバムを見てみませんか?ちょっと変わった版画が入っているんだけど、ま、ほどほどでね.....」

平成13年6月

デービッド