前回からさらに百年が過ぎて、明治38年(1905)の作品です。この絵は、当時人気のあった「文芸倶楽部」という雑誌の同年10月号に、付録として折り込まれた口絵でした。雑誌の中にある話などの挿し絵としてではなく、出版物に季節の味わいを添えるためのものでした。作者は梶田半古という人で、口絵の分野では良く知られていますが、一般の人達には耳慣れない名前のようです。
この絵を、シリーズの前2作品と比べた時、最も著しく違う点は、本物の女性だということです。前回の作品は両方とも、鼻や目や指など、どこをとっても画き方がかなり型にはまっているので、実在する人物とは似ても似つかない絵です。けれどもこちらの場合は、もしもこの時の写真があって、この絵と重ね合わせることができれば、ほとんどぴったりと重なることでしょう。百年の間に、人物を画く技術は格段に進歩したのです。でも、だからといって、どの口絵も写実的になったというわけではありません。作家によっては、顔の部分にまだ様式化された手法が見られますが、それでも全体として見れば、浮世絵の画き方から、カメラが導入された影響を顕著に示す素描へと、この分野は大きく変化しています。鑑賞する人達は、より本物に近い絵を求めるようになっていたのです。
また、できあがった作品からすぐに読み取ることはできませんが、当時、木版画の制作方法にも重要な変化が起きていました。浮世絵の場合、絵師への要求は大まかな線画だけで、その線が彫られて初めて、色を決める工程に入ったのです。絵師や版元や摺師が相談して、線で囲われた部分をどのように色付けするかを決めていきました。そして、実際の色合いに関しては、摺師の判断に任されるところが多分にありました。一方、新しいタイプの絵では、絵師が水彩を用いて完成した状態を提示したのです。それを見本として、制作担当者達は、摺師が原画の通りに色を付けられるように版木を用意したのです。この時点ではっきりと、創造的な仕事はすべて絵を画く側に移り、職人達はその指示下に置かれるようになったのです。この変化を、職人達がどのように受け止めたかを伝える記録はなにも残っていませ。この時にはすでに印刷機械が発達して彼らの仕事は失われ、版画職人の世界が消滅に瀕している時期でしたか。ですから、たとえどのような注文であれ、仕事にありつけることは有り難かったと想像できます。
以前、こうしたエッセイの中で、明治時代の版画職人を賞賛する気持ちを書いたことが何度かあります。これは彫師と摺師の双方に対するもので、彼らの技術はこのとき最高水準にあったと思うからです。数百年に渡って進歩し向上を続けて、技術は絶頂期だったのです。そのような理由で、私がこの時期に作られた口絵の復刻を試みるのは、生半可な挑戦でははありません。口絵をこのシリーズに入れるにあたっては、時間をかけて慎重に調べました。こんなに繊細で滑らかな色摺ができるだろうか?こんなに細かな髪の毛を彫れるだろうか?正直なところ、成功への確たる自信はなく...失敗に終わる不安もあったのです。中でも最も大変だったのは、彼女の顔の輪郭にかかる、何本もの交叉し合う髪の毛でした。百人一首シリーズに取り組んでいた頃の私は、この交叉し合う何本もの髪の毛に対処するために、2枚の版木を使いました。1枚には垂直な線を彫り、もう1枚には水平な線を彫ったのです。でも、明治時代の口絵を彫った職人は、そんな逃げの策を要しませんでした。彼らは、髪の毛全部を1枚の版木に彫ったのです。そして今回は、私も同じ方法を取りました。互いに交叉し絡まり合う髪の毛を、すべて同じ版木に彫りました。彫が済むと、線の間や交叉する角にたまりができないように摺らなくてはならず...。
出来映えには、かなり満足しています。これでやっと明治時代の仕事場に、彫師として雇ってもらえる技量に到達したかなと、自己満足にせよ思わずにはいられないのです。現実には、雇われたところで長続きはしないでしょう... 当時の労働時間の長さ、きつい職場状況、お粗末な報酬。でも、もっと悪いことは、でき上がった版画に私がサインすることを、親方が許してくれないでしょうから!
平成16年 10月
デービッド